造幣局監督官
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「オリバー・ボスビーシェル」の記事における「造幣局監督官」の解説
1889年10月17日、ベンジャミン・ハリソン大統領がボスビーシェルをフィラデルフィア造幣所の監督官に任命した。上院の会期中ではなかったので、ボスビーシェルの任命は休会任命となった。1889年11月1日に就任宣誓を行った。その職の初日に花束をもって出迎えられ、職を求める人々の大量の手紙も受け取った。このとき責任を持たされた造幣所の資産に対する受け取りを書き、前任者の計算書に過誤が無いことを確認した。同年12月16日に上院が会期に入り、ハリソンがボスビーシェルを任命した。翌日、バーモント州選出上院議員ジャスティン・モリルが、ボスビーシェルの任命が挙げられる上院財政委員会のために、ボスビーシェルの任命を確認することを推奨した。上院は12月19日に確認した。 1890年、ボスビーシェルは、当時破産していたキーストン国定銀行に国の資金4,200ドルを預けた。ボスビーシェルは自分の年収に比べて300ドル少ないだけのその負債に対して責任があり、分割してそれを返済し、1894年に完済した。同年8月、州軍連隊の大佐に選出された。ボスビーシェルは仲間の士官の幾人かに嫌われていたので、この選挙は予想外に接戦だった。1892年7月のホームステッド暴動に続いて、ペンシルベニア州知事ロバート・E・パッティソンがストライキで荒れた町に秩序を取り戻すために民兵隊の出動を命じた。ボスビーシェルはホームステッドの町に前衛連隊を率いて行った。そこではストライキ参加者が抵抗しなかった。1893年8月、ボスビーシェルは州軍任務から退役した。 1873年にアメリカ合衆国議会が慣習を廃止する前は、政府が銀を金と同様な法定通貨にしていた。このことで1800年代後半には大きな政治論争の1つに結び付いた。多くの者が1873年以前の法に戻すことを要求しており、そうするために政府が全ての銀を回収して銀貨に打ち直すことを必要とした。1891年1月3日、「自由銀」提唱者2人が大きな銀塊を持ってフィラデルフィア造幣所を訪問し、それを貨幣にすることを要求した。計量係がこれを拒否すると、彼らはボスビーシェルを出すように要求し、ボスビーシェルは彼らに会ったが、その要求は断った。しかし、彼らの要求に合わせて大衆が持ってくる銀の貨幣鋳造を法が禁じていると、文書を書いた。 ボスビーシェルは、バーバー貨幣、コロンブス半ドル貨、イザベル4分の1ドル貨など、新しい硬貨を鋳造したときに造幣局監督官だった。1893年に発行された4分の1ドル貨の場合、そのデザインについて造幣局の中で相談に乗り、当初そのデザインのために雇われていたキャロライン・ペドルに手紙を書き、貨幣に描かれるカスティーリャのイサベル女王の像に王冠を被せないよう要求した。それから間もなく、ペドルはこの計画から身を引いた。 1892年、クリーブランドが1期おいて再度大統領に当選した。民主党が力を取り戻し、1894年3月下旬、造幣局支配人ロバート・プレストンがボスビーシェルに、その地位をユージン・タウンゼンドに引き継ぐよう求めてきた。このことは造幣所にある1セント貨や5セント貨まで全てを数え直すことを必要としていた。ボスビーシェルは監督官としてその担保について保証人と相談した後、数え直し(3か月掛かると予測された)が終わるまで辞任することに抵抗したが、それでも指示された1894年3月31日には辞任することになった。
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