白色人種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「白色人種」の解説
ドルフースの暗殺以降、ムッソリーニはファシズムとナチズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人種政策(特にノルディック・イデオロギーとアーリアン学説)の多くを拒絶し、反ユダヤ主義からも距離を取り始めた。ムッソリーニは人種主義を少なくともヒトラーよりは遥かに敬遠した。彼は人種主義よりも民族主義に重きを置き、同化政策による植民地や新規領土のイタリア化(英語版)を推進した。ノルディック・イデオロギーの背後に地中海世界や古代ギリシャ・ローマ文明に対する蔑視や劣等感があると見抜いていたムッソリーニは、ヒトラーやヒムラーのような「北方的ではない白人」が持つ歪なコンプレックスから既に脱していた。 こうした態度はナチスとの論争に発展、ナチスは文化的統合を重視するイタリア・ファシズムは生物学的な純化を棄却しており、「白人(アーリア人種)の雑種化」に貢献していると批判した。対してファシスト党は(ヒトラー自身も認めるように)ナチスが蔑視するところの「スラブ」との境目に位置し、またイタリアと同様に統一が遅れたドイツにどれだけの「純粋な血統」があるのかと批判した。ムッソリーニ自身も「アーリア人種について」という1934年の演説でヒトラーを辛辣に批判している。 彼らの言う人種はどこにいる?アーリア人とやらがどこにいる?それは何時から存在した?そもそも存在するのか?空論、神話、あるいはただの詐欺か?…我々は既に答えを知っている。「そんな人種は存在しない」と。様々な運動、物珍しさ、麻痺した知性…。我々は繰り返すだろう。「そんな人種は存在しない」と。ただ一人、ヒトラーを除いては。 — Benito Mussolini, 1934. アーリア人理論に対する批判で知られるエーミール・ルートヴィヒが人種についての私論を尋ねた時、ムッソリーニはこう述べている。 「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。…大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家のほとんどはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。 — Benito Mussolini, 1933. 1934年にバーリで行われた党大会でもムッソリーニは改めて北方人種理論に対するスタンスを公表している。 30世紀にもわたるヨーロッパの歴史は、アウグストゥスに後援されたヴェルギリウスが素晴らしい文学を紡ぐ間、山奥で火を焚いていた人間の末裔が述べる戯言を冷笑する権利を諸君に与えている — Benito Mussolini, 1934. またユダヤ人(ユダヤ教徒)についても特別な好意は感じていなかったが、逆に反ユダヤ主義者でもなかった。無神論の立場を取る人間にとって、右派の持つローマ・カトリックを背景とした民族主義的な反ユダヤ主義は理解しがたい感情でしかなかった。強いていうならばマルクスの時代から「資本主義の象徴」としてユダヤ教文化を敵視する「左派の反ユダヤ主義」については一定の共感を抱き、イタリア王国が不利な扱いを受けたパリ講和会議について「国際ユダヤ人の陰謀」と非難したこともあった。とはいえ、民族主義・人種主義としての反ユダヤ主義とは明らかに距離を取っていた。ムッソリーニは「彼らは古代ローマの頃からその土地に居る」として、ユダヤ系イタリア人がイタリア社会にとって既に不可分であると述べている。ファシスト党の幹部にもユダヤ系イタリア人が多数おり、党幹部エットーレ・オヴァッザはユダヤ系党員による機関紙「La Nostra Bandiera(我らの旗)」を創設している。 ファシスト党の厳しい反発に対して、北方人種論を信奉する人種学者達は地中海人種と彼らが定義した南欧の人々が「かつては地中海人種であった人々が、色素が脱落して北方人種となった」とする一種の同祖論を唱え始め、ムッソリーニやファシスト党への擦り寄りを始めた。時同じくしてムッソリーニ個人もヒトラーとの友情を深め、ドイツとイタリアは運命共同体として世界大戦に向かっていくことになる。独伊の価値観を擦り合わせる動きが高まり、イタリア国内でも北方人種論に感化される人間が現れるようになった。 ファシスト党幹部だった作曲家ジウリオ・コグニ(イタリア語版)は完全にノルディック・イデオロギーの運動に取り込まれ、ファシスト党内の北方主義者によるムッソリーニへの働きかけを主導していった。ただしコグニらファシスト党内の北方主義者はドイツ民族と北方人種は分けて考える傾向にあった。これはナチスの御用学者であった人種学者ハンス・ギュンターが指摘するように、ドイツもまた「北方的(北欧的)」ではないドイツ人が多数を占めると考えられていたためである。 コグニはドイツに留学に出向いて人種学上におけるイタリア人の優位を主張するべく理論武装に努め、1936年に執筆した『人種主義』(Il Razzismo)という人種論の書籍をムッソリーニに献本している。著作の中でコグニは地中海人種を「地中海アーリア人」と定義し、「北方系と地中海系の混血はアーリア人全体の優等性を高める」と主張している。また統一イタリアで一貫して冷遇され続けるイタリア南部に同情の念を持ち、「南部の救済」をファシズムの重大な目標とみなしていたムッソリーニと異なり、コグニは貧しい南部への偏見や蔑視感情を強く持っていた。北方論を展開する上で最も反論されやすい、「オリエントな風貌」であると一般に考えられているナポリやシチリア、サルデーニャのイタリア人を「西アジア人やアラブ人との混血者」であり「真の地中海人種ではない」と半ば切り捨てる様な言動をしている。 1938年以降、侵略政策により国際的に孤立したイタリアとドイツが急速に接近すると、ドイツのニュルンベルク法を参考にしたイタリアにおける人種法(英語版)を制定する動きが本格化した。1938年7月14日、国家ファシスト党は『マニフェスト・デッラ・ラッツァ(英語版)』(人種憲章)を布告したが、憲章には先のコグニらイタリア人北方主義者の理論も一部取り込まれ、社会的に重要な地位や組織の「非ユダヤ化」を推進した。それまでファシスト政権に協力していた多くの政治家・科学者が亡命を余儀なくされ、スペイン内戦ではユダヤ系の陸軍将校が抗議の自決を遂げるという悲劇も発生している。ゲットーの復活や市民権の制限などを含めた同法はファシストの間でも大変に不評で、ユダヤ系の軍人達を案ずるサヴォイア家からも再考を促されており、そればかりか長年ユダヤ教徒と敵対してきたカトリック教会すらも批判した。ムッソリーニは内外の批判に対して「私は人種主義者だ」と表明、人種憲章が制定された年には「北方人種論をファシスト党も受け入れねばならない」と訓示し、国民に向けても「イタリア人もまたアーリア人であり、ランゴバルト人の末裔である」と演説している。 しかしムッソリーニは生物学的分類だけで人間を区分けする人種主義についてはあくまで懐疑的であった。人種という用語を使うことを避け、文化的側面も含めた全ての歴史的な連続性を意味する「血統」という用語に置き換えさせている。イタリア本土でのゲットー政策はドイツの様に強圧的なものではなく、ニュルンベルク法と異なり元ユダヤ教徒でも改宗者は対象外とされ、ホロコーストの様な虐殺や民族浄化なども決して実施されなかった。またナチス・ドイツで危機的な立場にあったユダヤ系の心理学者ジークムント・フロイト(フロイトはムッソリーニを「文明の英雄」と称賛するなど、その功績を高く評価していた)に亡命許可を出す様にヒトラーへ働きかけ、窮地を救っている。 更にフランス戦後に成立したイタリア南仏進駐領域では積極的にユダヤ人弾圧に協力したヴィシー政権に対して、フランス各地のユダヤ教徒を受け入れる命令を出している。イタリアが主導的な役割を果たした旧ユーゴスラビア地域の治安維持についても、軍や警察に対してユダヤ教徒を可能な限り反ユダヤ主義から守る様に命令を出している。ドイツ側はイタリア側のユダヤ教徒保護政策の維持について強く抗議し、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外務大臣がムッソリーニに不満を表明している他、コグニもムッソリーニの人種政策が熱意に欠けていると批判している。結局の所、多くの歴史家は自らの生命線となったドイツとの友好を守るために北方人種論を受容し、ユダヤ教徒を犠牲にしたのだと考えている。晩年に古参党員のブルーノ・サパムタナトとの会話で反ユダヤ政策が本心ではなかったことを告解している。 人種法は避けられるものだったし、私の意図するものでもなかった。ポポロ・ディタリアでも見れば分かることだろうが、私はローゼンベルクの神話など信じてはいない — Benito Mussolini, 1943. 半ば傀儡政権と化したRSI時代にはナチスおよびヒトラーの圧力に屈して、親衛隊のアロイス・ブルンナーらによるイタリア南仏進駐領でのユダヤ教徒の強制送還が進められた。またRSI成立時にナチスドイツの直接統治下に移動した北西部の2州、現フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に設置されたアドリア沿岸部軍政領域(英語版)のトリエステには旧イタリア領で唯一の絶滅収容所としてサンサッバ強制収容所(英語版)が建設され、小規模ながらガス室も設置されている。近年、ムッソリーニが「ホロコーストを止めなかった」という点でヒトラーの共犯と見なす意見が主張される傾向にあるが、ナチス政権のホロコースト政策は自国の人間に対してすら秘匿されており、ムッソリーニが関与できる余地はなかった。
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