憲法設計に携わる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:57 UTC 版)
明治14年(1881年)3月、有栖川宮熾仁親王の求めに応じ大隈重信と矢野文雄が憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるや否や、福澤諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、イギリスに範をとる憲法制度に反対した。6月に外務省雇の法律顧問ロエスレルの協力を得て、『欽定憲法考』、『憲法意見第一』、『憲法綱領』などの調査書類を提出。漸進主義とプロイセン(ドイツ)型国家構想を主張した。6月30日に伊藤を訪ね大隈排斥を提案するが説得できず、その後も書を送って憲法草案の大任にあたるよう懇請、伊藤の決心を促すため、この大事が他人の手に渡るならば自分は熊本に帰るまでと述べる。 以後も大隈排斥の多数派工作のため、宮島で療養中の井上馨を訪ね、彼を大隈排斥とプロイセン型憲法の早期制定論者へと豹変させ、伊藤への説得を依頼する。続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。この間、7月5日には岩倉の名で井上の憲法意見書が『大綱領』として上奏されている。そして開拓使官有物払下げ事件が報道されると、大隈・福澤らを政府内から排撃するため、大隈陰謀説の流布に加担し、結果として10月に発生した大隈と彼に属する官僚の罷免につながる(明治十四年の政変)。9月には伊藤から内閣制度改革案を起草され関係を修復した。 政変後は伊藤のブレーンとして活躍し12月に発足した参事院(後の内閣法制局)の議官になり、国会開設の詔を起草、明治15年(1882年)に発布されることになる軍人勅諭の起草に関わる。同年と明治17年(1884年)に朝鮮で起こった壬午事変・甲申政変に対応して和睦に派遣された花房義質や井上馨に同行して朝鮮へ渡り、朝鮮との交渉に努めた。さらに明治17年(1884年)3月17日に憲法制定のために設置された制度取調局長官に就任した伊藤の下で御用掛を兼任、同じ御用掛となった伊東巳代治・金子堅太郎らと共に伊藤の補佐役として大日本帝国憲法の起草に参加、皇室典範の起草にも関わる。ただ、同年の華族令の公布と明治18年(1885年)の内閣制度始動による第1次伊藤内閣の発足など政治体制の整備で憲法は後回しになり、本格的な憲法作りは先へ持ち越された。 明治19年(1886年)5月に伊藤の呼びかけで憲法に着手、翌明治20年(1887年)5月に憲法草案に甲案・乙案を伊藤へ提出、ロエスレルも伊藤に出した草案を参考にして憲法作成は始動した。同年6月から8月にかけて夏島(現在の神奈川県横須賀市)にあった伊藤の別荘で作業を行い、伊東・金子も交えて4人で討論しながら草案完成に向けて全力を尽くし、10月に高輪(現在の東京都港区)の伊藤の屋敷に移り重ねて議論、明治21年(1888年)4月27日に草案が完成、3日後の30日に伊藤は首相を辞任、代わりに憲法審議機関として枢密院を創設し、自身は議長として引き続き憲法作成に取り掛かった。井上ら3名も枢密院書記官として伊藤の側に仕えて憲法審議に参加(井上のみ書記官長に就任、法制局長官も兼ねる)、顧問官に任命された政治家達と議論を尽くした末、明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法は公布された。 憲法草案作成の前後、明治19年(1886年)末から明治20年(1887年)初めにかけて、小中村義象を随伴して相模・房総を訪ねた際、鹿野山登山中に小中村の示唆から『古事記』における「シラス」と「ウシハク」の区別に着目、後に「シラス」の統治理念を研究する。草案は井上のこの閃きで「日本天皇ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」と書かれたが、本文で改められて「治ス」が「統治ス」に変化、憲法第1条に記された。
※この「憲法設計に携わる」の解説は、「井上毅」の解説の一部です。
「憲法設計に携わる」を含む「井上毅」の記事については、「井上毅」の概要を参照ください。
- 憲法設計に携わるのページへのリンク