ルイ14世時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 04:48 UTC 版)
「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の記事における「ルイ14世時代」の解説
ピレネー条約から2年後の1661年にマザランが死去してルイ14世が親政開始を宣言、テュレンヌは親政に先立つ1660年4月4日にフランス王軍の大元帥とされた。この時カトリックに改宗した場合、1627年に廃止されていた『フランス宮内長官(fr)』の復活をルイ14世から打診されていたが、テュレンヌは提案を辞退した。両親がともにカルヴァン派で自身もプロテスタントの教育を受けていることから、1639年にリシュリューが申し出た姪の1人との結婚も断っていたし、マザランから持ち出された縁者との結婚依頼も拒んでいたのである。フロンドの乱の最中の1652年には、かつての上司で深く慕っていたプロテスタントの元帥フォルス公の娘シャルロット・ド・コーモンと結婚している。 しかしテュレンヌはキリスト教会の不和を心から深く嘆いていた。彼は常に多くの意見の異なったり押さえきれない一派の影響を信用しなかった上、イングランド軍と国民の独立の過程(清教徒革命)に深い印象を受け、イングランドの長老派教会がやがて王政復古に転じた無秩序ぶりの恐怖からカトリックへ傾いていった。妻シャルロットとの間で交わされた手紙には、どのように2人とも密接にこの事件での有効な証言を学んだかがみてとれる。1666年に子供が無いままシャルロットが死んで文通は終わり、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ司教の熱弁と甥でゴドフロワ・モーリスの弟エマニュエル・テオドール枢機卿の説得で2年後の1668年10月にカトリックに改宗した。 1667年、テュレンヌは性分に合った空気の王軍へ戻り、ネーデルラント継承戦争でフランス軍のネーデルラント侵攻を指揮して短期間でシャルルロワ、トゥルネー、ドゥエー、エペルネー、リールなどネーデルラントの諸都市を陥落させた(名目上はルイ14世が指揮)。また、ピレネー条約により罪を許されフランスへ帰国したコンデ公は翌1668年2月に東のフランシュ=コンテ地方を素早く征服してテュレンヌの戦功と競い合った。但し、1668年1月にはオランダを始めとする三国同盟の干渉で戦争は早期終結となり、さほど領土は得られずに終わっている。
※この「ルイ14世時代」の解説は、「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の解説の一部です。
「ルイ14世時代」を含む「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の記事については、「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の概要を参照ください。
ルイ14世時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:18 UTC 版)
1659年フランス王ルイ14世が、建築家ルイ・ル・ヴォー (en:Louis Le Vau) と画家シャルル・ル・ブランにルーヴルの拡張計画推進を命じた。ル・ヴォーはテュイルリー宮殿の改装が完了するまで作業監督を務め、さらにルーヴルの北翼の仮組と南翼の延伸の完遂、王の別館の装飾、プティート・ギャルリに沿って設けられた新たなギャルリである王の大執務室 (Grand Cabinet du Roi) と礼拝堂の新設を担当した。ル・ブランはギャルリ・アポロン(アポロン展示室 (en:Galerie d'Apollon))の装飾を担当した。造園家のアンドレ・ル・ノートルは、カトリーヌ・ド・メディシスが1564年にイタリア風庭園として完成させたテュイルリー庭園を、フランス風庭園へと改装している。「王室美術コレクション (Cabinet du Roi)」の中核は、プティート・ギャルリの上階に設置されたアポロン・ギャルリ西側の8部屋に飾られていた。1673年頃には多くの歴代フランス王の肖像画がこれらの部屋に収蔵されており、アート・ギャラリーとして公開されるようになっていった。1681年にルイ14世がフランス王宮をルーヴルからヴェルサイユ宮殿に遷すと、アポロン・ギャルリの絵画のうち26点がヴェルサイユ宮殿へと持ち出された。ルーヴルの王室美術コレクションの価値はその分低くなったとはいえ、1684年発行のパリガイドブックにも記載されており、1686年にはシャムの外交官一行が見学に訪れている。 ルイ13世が任命した、ル・ヴォー、ル・ブラン、クロード・ペローらで構成される建築委員会が、ルーヴルの東ファサードの設計を担当した。1668年に建設が開始され、ルイ14世が在位中の1680年に一応の完成を見た。しかしながら翼部分は一部が未完成で、すべて完成したのはナポレオン1世の時代になってからだった。この東ファサードの設計を主導したのはペローだといわれており、各建築家の意見をうまく調整して南翼の横幅を倍にする決定を下したのもペローだった。 東ファサードの屋根は明らかにフランス風ではない平らな構造と、典型的なイタリア風欄干で囲まれている。このデザインがフランス建築史の一大転換となった。当時のルーヴルでは、特別にパリへと招聘された世界的なイタリア人建築家・彫刻家ベルニーニが改装設計を担当していた。しかしながら、この東ファサードはベルニーニによる設計案ではなく、ペローの設計案が採用された建物である。ペローは古代ローマの建築家ウィトルウィウスのデザインをフランス建築に昇華した。柱塔、コロネード、ペディメントなど、古典主義とバロックを抑制的に融合した様式は、何世紀にもわたってヨーロッパやアメリカの大規模建造物の手本となってきた。ニューヨークのメトロポリタン美術館もペローの様式からの影響を受けている。ペローは南翼の横幅倍増計画の責任者でもあった。南翼ファサードはル・ヴォーのデザインで改装されていたが、ペローはより東ファサードと調和するデザインで南翼ファサードを一新している。さらにペローは北翼の市街側ファサードの設計も担当したほか、クール・カレ側の北、東、南ファサードのデザインの責任者でもあったと考えられている。
※この「ルイ14世時代」の解説は、「ルーヴル宮殿」の解説の一部です。
「ルイ14世時代」を含む「ルーヴル宮殿」の記事については、「ルーヴル宮殿」の概要を参照ください。
- ルイ14世時代のページへのリンク