ルイ14世への出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 21:36 UTC 版)
「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事における「ルイ14世への出仕」の解説
1633年、フランス、ブルゴーニュ地方のサン・レジェ・フォーシェレという小さな田舎町(現在のヨンヌ県にあるこの町は、その功績を称えサン・レジェ・ヴォーバンと改名した)の貧乏貴族の家に生まれた。10歳の時に孤児となり、農村社会での極貧生活を経験したが、幸運なことにカルメル会の保護を受けてスミュール=アン=ノーソワにて高等教育を受ける機会が得られ、数学、幾何学、理学など後の業績につながる知識を得ることができた。 17歳でコンデ公ルイ2世の軍隊に入隊し、フロンドの乱(1648年 - 1653年)に将校として参加する。その働きぶりがコンデ公の目にとまり、要塞の築城を任されることになった。しかし1653年にヴォーバンは国王軍に捕らえられ、マザランのとりなしでルイ14世に仕え、テュレンヌ元帥の連隊に配属された。こうして今度は自らが築城した要塞を自ら攻略する立場となった。 フロンドの乱とそれに続くフランス・スペイン戦争が1659年に終結するまでの間、ヴォーバンは10回の攻囲戦に参加、グラヴリーヌの攻囲戦では技術士官団長に任じられ、たびたび負傷した。この間、1655年に王室侍従技術官(技術士官)に任命され、当時著名な軍事技術者であったルイ・ニコラ・ド・クレルヴィル(フランス語版)に師事する。またこの時に歴史あるピカルディ連隊の中隊に配属され、軍事工学の専門家として勤務することとなる。同時期に従姉妹のジャンヌ・ドールネーと結婚している。
※この「ルイ14世への出仕」の解説は、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の解説の一部です。
「ルイ14世への出仕」を含む「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事については、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の概要を参照ください。
- ルイ14世への出仕のページへのリンク