ルイ15世の時代
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ルイ14世期に確立されたとされる「絶対王政」は、聖職者・貴族・ギルドといったある種の利権団体(社団)との強固な結びつきのもとに成立していたもので、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではなかった。18世紀になり、1715年にルイ14世が没すると、王位はルイ15世に移った。約10年間の摂政時代を経て1726年にルイ15世の親政が始まるも、ルイ15世は政治を嫌い、女遊びにばかり興じる一方であった。特にポンパドゥール夫人は20年近くに渡ってルイ15世を虜にし、ヴェルサイユの一隅に贅を尽くした邸宅を建て、王室の財政を圧迫した。また、エオンという素性の知れない怪しい人物を側近にし、国際交渉の場にも彼女を出席させた。こうしたいい加減な振る舞いは王権の威信を失わせていった。一方で、豪華絢爛なバロック様式を好んだルイ14世と比べ、ルイ15世の時代にはロココ様式による文化が生まれ始める。 1756年、七年戦争が勃発する。この戦争でフランスは海外植民地での戦闘で敗北を喫し、1763年のパリ条約で、カナダのミシシッピ川以東のルイジアナと西インド諸島の一部をイギリスに、ミシシッピ川以西をスペインに割譲され、アメリカ大陸・インドからの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フランスに多大な負債と革命の種を残しただけであった。
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ルイ15世の時代
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フランソワの息子、フランソワ=ドゥ・ル=ノルマンは、コーヒーの木を導入し、ルイ15世に大変喜ばれた。 1732年、フランソワの兄弟、ルイは、オランダ式の温室(丸天井で背が低いタイプ)を導入し、1735年には王にパイナップルを献呈した。温室は作業者の仕事を楽にし、菜園の大きな進歩につながったが、やがて1749年以降、ルイ15世が、トリアノンの植物園に宮廷の予算を充てたため、菜園の状況は停滞する。 1759年、ルイの息子、ジャック=ルイが、宮廷に、保存用食料を提供する必要ができたため、菜園の活動が一定に維持されることになった。彼も常に研究を重ね、アスパラ、いちじく、メロンの栽培は高く評価され、頻繁に旅に出ては、持ち帰った種を菜園に根付かせる努力をした。1792年の死去に際し、宮廷の財務監アンジヴィレール伯(fr)から、菜園の経営を整え、支出を抑えた上で今までになく多種の植物を発展させたことが評価された。
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