ルイ14世の親政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「ルイ14世の親政期」の解説
1661年、ルイ14世を補佐していた宰相マザランが死去し、ルイ14世の親政が始まった。さらなるブルボン家の勢力拡大を図ったため、一層の財政充実がもとめられ、財務長官のコルベールがその任にあたった。彼は、休眠中であったフランス東インド会社を再建させ、王立特権マニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図るなど、重商主義政策を推進した。一方で対外政策としては、ネーデルラント継承戦争に見られるように、相次いで領土拡大戦争を起こした。 当初、イングランドのステュアート朝(革命中に王族を保護していた)と友好的だったため、英仏の王朝的関係は良好(英議会とは不仲)であったが、ネーデルラント継承戦争のさなか、名誉革命によってオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位してしまったため、対英関係は悪化した。 ライン川流域のプファルツに対して起こしたアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争)でも、国際的な対ブルボン家包囲網が形成されるなど、覇権を追い求めるルイ14世はヨーロッパにおける外交的孤立を余儀なくされていった。スペイン・ハプスブルク家の断絶に乗じて起こしたスペイン継承戦争では、ユトレヒト条約でスペイン・ブルボン家の王位を承認させるという成果を得たものの、北米大陸でアカディア、ハドソン湾などの領土を喪失したことや、イギリスにスペイン・ブルボン家のアメリカ大陸領におけるアシエント権(奴隷貿易独占権)を認めるなど打撃も大きかった。
※この「ルイ14世の親政期」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「ルイ14世の親政期」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。
- ルイ14世の親政期のページへのリンク