ルイ14世との不倫関係と宮廷生活
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「ヘンリエッタ・アン・ステュアート」の記事における「ルイ14世との不倫関係と宮廷生活」の解説
1661年3月31日、ヘンリエッタ(アンリエット)はオルレアン公とルーヴル宮殿で結婚した。しかし夫は男色家であり、彼女に性的関心を示さなかった。アンリエットは淋しさから、義兄でもう1人の従兄ルイ14世と不倫関係になった。王との密会をカムフラージュするため、侍女のルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールが王の偽の愛人となったが、そのうちルイ14世は本当にルイーズに恋してしまった。ショックを受けたアンリエットは傷ついたが、もともと義兄妹として許されない関係という事は承知していた事もあり、ルイ14世の事はあきらめた。その後、彼女は夫の愛人と噂されているギーシュ伯爵アルマン・ド・グラモンを新しい情夫にしたが、ギーシュ伯は浮気を知ったオルレアン公の怒りを買い、宮廷で評判を落とした。 アンリエットは教養豊かで、若く才能に恵まれた芸術家達の育成と保護に励んだ。彼女の自宅で開かれたサロンには哲学者・画家・文学者・音楽家が集まり、芸術論について語り合った。悲劇作家ジャン・ラシーヌもアンリエットのサロン入りを願い、彼女に献辞を贈った『アンドロマック』で成功を収めて覚えがめでたくなり、1670年に彼女の要請で書き上げた『ベレニス』も好評で作家としての地位を不動の物とした(ただし上演はアンリエットの死後)。 2人の間にマリー・ルイーズ、フィリップ・シャルル、アンヌ・マリーと3人の子供達が生まれても、夫婦仲は改善されなかった。オルレアン公はやがてサン=クルーにある夫妻の館にまで、お気に入りの美男の恋人フィリップ・ド・ロレーヌとその仲間達を連れ込むようになり、妻の存在を無視して大騒ぎをしていた。ついに思い余ったアンリエットは、ルイ14世にこの苦境を訴えた。彼女の訴えを聞いた王は、オルレアン公とアンリエットの不仲がイングランドとの微妙な関係に悪影響を与える事を恐れた。既にルイ14世はチャールズ2世から、理由はわからないが妹が思い悩んでいる様子で心配だという手紙を受け取っていた。王はすぐにロレーヌをマルセイユ海上の孤島シャトー・ディフに投獄し、文通を一切禁止した。
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