ルイ13世とリシュリュー
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ルイ13世とリシュリュー」の解説
1610年のアンリ4世暗殺後は、わずか9歳のルイ13世が王位を継承し、母后のマリー・ド・メディシスが摂政となった。ルイ13世の治世は当初、先王に抑え込まれていた大貴族やプロテスタント勢力が王権に反旗をひるがえす構えを見せ、その基盤は不安定であった。そのため、フランス王権は1614年、コンデ公アンリの要請により、全国三部会の開催を余儀なくされている。1620年、国王ルイ13世が改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリック支持の裁定を下したことに改革派は反発し、同年12月に開かれた改革派の全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのは、ロアン公アンリ(フランス語版)であった。1621年から1622年まで続いた両者の戦いはほぼ王側の優勢のうちに決着し、モンプリエ条約(フランス語版)を結んだが、ここではルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された。しかし、ルイ13世がモンプリエ条約の遵守に熱心でないことに改革派は不満を隠しきれず、1625年に再び戦闘が開始されると、宰相であったリシュリューはユグノー戦争時代以来の改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派を打ち破り、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側との提携を検討していたため、1626年には講和してパリ条約を結び、宗教の自由の保障を再確認した。 1624年、リシュリュー枢機卿は国務会議で宰相の地位を確立し、ルイ13世を支えた。政治的動揺はなおも続き、三部会に準じた名士会が1627年に召集されている。しかし、これを最後に三部会は革命前夜のルイ16世当時まで開かれず、これは絶対王政確立のひと目安とみなすことができる。1627年、リシュリューは再びプロテスタント勢力の反乱と対峙し、13か月におよぶラ・ロシェル包囲戦を戦った。改革派はイングランドとの提携を図るがイングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月にラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックも制圧して決定的な勝利を獲得し、ロアン公アンリを国外に追放した。同年6月には和平が成立し、アレスの勅令(フランス語版)が発せられた。宗教的寛容の持ち主だったリシュリューは、カトリック教徒の不満にもかかわらずナント勅令に認められていたプロテスタントの信仰の自由の維持を約束したが、プロテスタントには武装解除を命じ、ナント勅令で認められていた彼らの政治的・軍事的権利については剥奪した。 リシュリューの政策は、外交面ではハプスブルク家との対決姿勢を基本とし、内政面では戦争遂行のために課税可能な体制の構築をめざすものであり、彼の指導下でフランスはドイツを主戦場とする三十年戦争に本格的に介入した。しかし、マリー・ド・メディシスらの親スペインの動きはフランス国内のプロテスタントを動揺させて抵抗へ向かわせていたうえ、増税は各地で民衆蜂起を招いていた。1635年、ブルボン朝フランス王国はともにカトリック信仰に拠って立つハプスブルク家との全面戦争に踏み切った。カトリックを国教とするフランスがプロテスタント勢力と手を組み、西のスペイン、東の神聖ローマ帝国と戦うことを選択した。1642年にリシュリューが、1643年にはルイ13世が相次いで死去したが、「国家理性」の名において正当化された2人の対ハプスブルク政策は、外交的には好結果を生み、上述のように1648年のヴェストファーレン条約と1659年のピレネー条約により、フランスはスペインからヨーロッパ列強首位の座を奪うことに成功する。 この時期の文化政策で特筆されるのは、1635年にリシュリュー枢機卿の庇護のもとで学術団体「アカデミー・フランセーズ」が創設されたことである。アカデミー・フランセーズ設立の中心人物となったヴァランタン・コンラール(フランス語版)は王室秘書にして改革派の文筆家であった。アカデミー・フランセーズではフランス語辞典の編纂事業がおこなわれ、フランス語の「純化」が図られた。古代の帝政ローマの歴史を参照し、至高の王権のもとに規律と服従を旨とする新しい政治文化の形成を追い求めたリシュリューは、言語においてもそのあるべき規範を示そうとした。コンラールは熱心なプロテスタント信仰の持ち主であったにもかかわらず、リシュリューは終生王室秘書の地位を保障した。
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