ルイ14世とマザランとは? わかりやすく解説

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ルイ14世とマザラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ルイ14世とマザラン」の解説

フロンドの乱」も参照 ルイ13世死去後は、のちに「太陽王」と呼ばれるルイ14世が後を継いだが、1643年即位当時の彼はまだ4歳であった摂政となった母后アンヌ・ドートリッシュは、リシュリュー腹心だったジュール・マザラン宰相任じたマザラン内政と外交両面リシュリュー政策継承する戦争重税にあえぎ、国王代替わり機に変化期待していた人々新政権反発して王国改革求めた1648年1月アンヌ・ドートリッシュ親裁座を開いて増税のための王令の登録をパリ高等法院命じたのに対し、この席上高等法院次席検察官のオメール・タロン(フランス語版)は農村疲弊頂点達していると指摘して王権公然と批判し、この演説はただちに大量に印刷され地方にまで知られるようになった同年4月末、官職保有者対す俸給4年間にわたって支払い停止とすることが決定される4つの最高書院(パリ高等法院会計院、租税院、大法院)の代表が集会討論し7月にはそれに基づいて地方長官廃止などを含む王国改革向けた声明文発した反政府運動広がりをみせて政府側も若干譲歩余儀なくされたが、8月には母后マザラン反撃転じて最高法院における運動の中心人物ピエール・ブルセル(フランス語版)を逮捕した。これに対してパリ民衆蜂起し5年にわたるフロンドの乱発展した。この乱は、増税に不安をかかえるブルジョワジー民衆従来政治的特権脅かされていると感じている帯剣貴族俸給停止地方長官廃止に不満をもつ官職保有者など、王権に不満をいだく階層動き重なって大規模な反乱発展したが、各層利害それぞれ一致しないことから統一的な王権運動には発展しなかった。イタリア出身マザラン枢機卿不人気であった政治家としては有能で、ヴェストファーレンピレネーの両条約フランス勝ち取ったものは大きかったフロンドの乱終結した1653年以降戦時臨時措置として導入された諸制度はやがて恒常化ていったが、これらはフランス王権広範な自由裁量与えるものとなったマザランまた、ユグノーに対して改革派全国教会会議開催禁止した

※この「ルイ14世とマザラン」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ルイ14世とマザラン」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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