ルイ14世とマザラン
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ルイ14世とマザラン」の解説
「フロンドの乱」も参照 ルイ13世死去後は、のちに「太陽王」と呼ばれるルイ14世が後を継いだが、1643年の即位当時の彼はまだ4歳であった。摂政となった母后アンヌ・ドートリッシュは、リシュリューの腹心だったジュール・マザランを宰相に任じた。マザランは内政と外交の両面でリシュリューの政策を継承するが戦争と重税にあえぎ、国王の代替わりを機に変化を期待していた人々は新政権に反発して王国改革を求めた。1648年1月、アンヌ・ドートリッシュが親裁座を開いて増税のための王令の登録をパリ高等法院に命じたのに対し、この席上で高等法院次席検察官のオメール・タロン(フランス語版)は農村の疲弊が頂点に達していると指摘して王権を公然と批判し、この演説はただちに大量に印刷されて地方にまで知られるようになった。同年4月末、官職保有者に対する俸給を4年間にわたって支払い停止とすることが決定されると4つの最高書院(パリ高等法院、会計院、租税院、大法院)の代表が集会で討論し、7月にはそれに基づいて地方長官制廃止などを含む王国改革に向けた声明文を発した。反政府運動は広がりをみせて政府側も若干の譲歩を余儀なくされたが、8月には母后とマザランが反撃に転じて最高法院における運動の中心人物ピエール・ブルセル(フランス語版)を逮捕した。これに対してパリの民衆が蜂起し、5年にわたるフロンドの乱へ発展した。この乱は、増税に不安をかかえるブルジョワジーや民衆、従来の政治的特権が脅かされていると感じている帯剣貴族、俸給停止や地方長官廃止に不満をもつ官職保有者など、王権に不満をいだく階層の動きが重なって大規模な反乱に発展したが、各層の利害がそれぞれ一致しないことから統一的な反王権運動には発展しなかった。イタリア出身のマザラン枢機卿は不人気であったが政治家としては有能で、ヴェストファーレンとピレネーの両条約でフランスの勝ち取ったものは大きかった。フロンドの乱が終結した1653年以降、戦時の臨時措置として導入された諸制度はやがて恒常化していったが、これらはフランス王権に広範な自由裁量権を与えるものとなった。マザランはまた、ユグノーに対して改革派全国教会会議の開催を禁止した。
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