リシュリュー枢機卿の執政とは? わかりやすく解説

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リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 00:27 UTC 版)

ルイ13世 (フランス王)」の記事における「リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年)」の解説

ルイ13世リシュリュー枢機卿1624年首席国務卿(宰相)に登用した。以降、彼がルイ13世治世大きな役割果たしその後18年間にわたりフランスのかじ取り行っていくことになる。リシュリュー業績によってルイ13世絶対君主最初の一人となる。 ルイ13世とリシュリュー懸案だったユグノー討伐乗り出した1628年14か月包囲戦の末にユグノー本拠ラ・ロシェル陥落させ(ラ・ロシェル包囲戦)、ラ・ロシェル和議によりアンリ4世によって与えられユグノー対す政治的軍事的特権撤廃させた(信仰の自由許容されている)。 1630年リシュリューに不満を持った国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックら一部貴族母后マリー結んでリシュリュー排斥クーデター企てたルイ13世も一旦はリシュリュー罷免同意したものの、翌日には態度翻してしまう(「欺かれし者の日」)。クーデターリシュリュー勝利してマリヤックは罷免母后マリーは再び追放されブリュッセル亡命した1635年フランス三十年戦争プロテスタント側で介入し国王自ら軍を率いてスペイン軍戦火交える。だが、戦争によって重税課されて民は困窮し民衆蜂起各地起こっている。 1638年王妃アンヌ・ドートリッシュ24年結婚生活の末に王位継承者である待望男子(後のルイ14世)を生んだルイ13世とリシュリューの下、アンタンダン(地方監察官)の設置により貴族規律保って国王集権化強化し加えてル・アーヴル港を近代化させ、強力な海軍構築した不運なことに、国王リシュリューには切実に必要とされる行政(特にフランス税制)を改革する時間的、そして情勢余裕残されていなかった。 国外では、ルイ13世北アメリカ大陸ヌーベルフランス開発行政組織し植民地ケベックからモントリオールへと、セントローレンス川西方にまで拡大させている。また1640年フランス領宣言された島(レユニオン)を1642年に「ブルボン島」と命名した文化面ではルイ13世は、フランス有望な芸術家が国を離れてイタリアで学び仕事をする風潮変えさせるよう努力をしている。そのため、彼は画家ニコラ・プッサンフィリップ・ド・シャンパーニュルーヴル宮装飾させる任に就かせている。また、アマリリス』を作曲したとされている。 1642年12月リシュリュー死去するその5か月後の1643年5月14日ルイ13世ルーヴル宮において41歳崩御した。その後をわずか4歳ルイ14世が継ぐことになる。

※この「リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年)」の解説は、「ルイ13世 (フランス王)」の解説の一部です。
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