リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年)
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「ルイ13世 (フランス王)」の記事における「リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年)」の解説
ルイ13世はリシュリュー枢機卿を1624年に首席国務卿(宰相)に登用した。以降、彼がルイ13世の治世で大きな役割を果たし、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。リシュリューの業績によってルイ13世は絶対君主の最初の一人となる。 ルイ13世とリシュリューは懸案だったユグノー討伐に乗り出した。1628年、14か月の包囲戦の末にユグノーの本拠ラ・ロシェルを陥落させ(ラ・ロシェル包囲戦)、ラ・ロシェル和議によりアンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた(信仰の自由は許容されている)。 1630年にリシュリューに不満を持った国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックら一部貴族が母后マリーと結んでリシュリュー排斥のクーデターを企てた。ルイ13世も一旦はリシュリュー罷免に同意したものの、翌日には態度を翻してしまう(「欺かれし者の日」)。クーデターはリシュリューが勝利してマリヤックは罷免、母后マリーは再び追放され、ブリュッセルへ亡命した。 1635年、フランスは三十年戦争にプロテスタント側で介入し、国王自ら軍を率いてスペイン軍と戦火を交える。だが、戦争によって重税が課されて民は困窮し、民衆蜂起が各地で起こっている。 1638年に王妃アンヌ・ドートリッシュが24年の結婚生活の末に王位継承者である待望の男子(後のルイ14世)を生んだ。 ルイ13世とリシュリューの下、アンタンダン(地方監察官)の設置により貴族の規律を保って国王集権化を強化し、加えてル・アーヴル港を近代化させ、強力な海軍を構築した。不運なことに、国王とリシュリューには切実に必要とされる行政(特にフランスの税制)を改革する時間的、そして情勢的余裕は残されていなかった。 国外では、ルイ13世は北アメリカ大陸のヌーベルフランスの開発と行政を組織し、植民地をケベックからモントリオールへと、セントローレンス川の西方にまで拡大させている。また1640年にフランス領と宣言された島(レユニオン)を1642年に「ブルボン島」と命名した。 文化面ではルイ13世は、フランスの有望な芸術家が国を離れてイタリアで学び、仕事をする風潮を変えさせるよう努力をしている。そのため、彼は画家のニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュにルーヴル宮を装飾させる任に就かせている。また、『アマリリス』を作曲したとされている。 1642年12月にリシュリューが死去する。その5か月後の1643年5月14日にルイ13世もルーヴル宮において41歳で崩御した。その後をわずか4歳のルイ14世が継ぐことになる。
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