明治前期の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の評価については、明治になってからも江戸期と大きく変わらない状態がしばらく続いた。嘉永7年(1854年)に江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助によって2刷本が発行された「おらが春」は、版木が再び初版を出した白井一芳の手に戻った。白井は刊記に年号の記載がないため発行時期は明らかではないが、題名を「おらが春」に戻して3刷を発行、発売している。そして明治11年(1878年)、白井一芳が出版、販売は長野の書店主であった西沢喜太郎により4刷本が刊行された。4刷本は基本的にこれまでと同様、嘉永5年(1852年)の初版時の版木をそのまま使用している。4刷本の中には木版の破損によると思われる印刷状態の変化が確認されており、このことから4刷本はかなりの部数、印刷されたと考えられている。このように「おらが春」は、初版の版木を用いて幕末から明治にかけて刷を重ねており、当時の一茶に対する根強い人気が想定される。 「おらが春」ばかりではなく文政版「一茶発句集」も、文政の版木を用いて明治初年から明治36年(1903年)に至るまで、複数回発行された。また、明治中期に至るまで、俳人の短冊の市価においても一茶はやはり高評価を保ち続けていた。明治に入っても一茶は決して忘れ去られた訳ではなかった。 明治前半にはまた、江戸時代の俳人の系譜を継ぐ、いわゆる旧派の俳人たちが一茶を評価、紹介していた。明治16年(1883年)、惺庵西馬の弟子にあたる三森幹雄は、自らが主宰する俳句誌上で一茶を高く評価する。幹雄は更に明治26年(1893年)、自著の中で一茶の評伝を紹介し、その俳風を高く評価した。幹雄の一茶観は師であり、「おらが春」初版本の跋文を執筆した惺庵西馬の影響が大きかったと考えられている。またやはり旧派の俳人であったと考えられている井原亭も、明治19年(1886年)頃に一茶句集の発行を計画し、幕末から明治時代にかけて活躍した俳人である師匠の内海良大に序文を依頼している。実際に一茶句集が発行されたかどうかは不明であり、良大の序文のみが伝えられているが、序文では「一世の秀吟また多し」と、一茶の句に秀作が多いことを指摘していた。このように一茶は近代に入り、まず旧派の俳人たちによって評価が始められていた。
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