明治史要「使府県戸口概表」
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「府藩県三治制下の日本の人口統計」の記事における「明治史要「使府県戸口概表」」の解説
『明治史要』収録の「使府県戸口概表」に、廃藩置県の実施された明治4年旧暦7月14日(1871年8月29日)付の1使3府302県の戸数・人口(但し開拓使の人口は不記載)が集計されている。しかしながら本表の草稿である、東京大学史料編纂所所蔵『明治史要諸表底本』「府藩戸口調書」には「庚午」の記載と共に3府・261藩・41県の区切りで戸数・人口が集計されており、また他統計との比較からも、『明治史要』「使府県戸口概表」の府藩県別人口自体は庚午年概算と同じ、明治2年、明治3年をベースにした本籍人口と思われる。ただし後述の大隈重信関係資料「府藩県石高人口表」や、統計集誌収録の「人員表」と比較すると、廃藩置県までの府藩県境域の変化、とりわけ大名預地の消滅に伴う人口の組み換えは実施されているようである。「使府県戸口概表」の解説によると、総計663万2173戸3186万6389人は明治5年戸口表に比べて戸数47万5668戸人員124万4332人少なく、おそらく皇族・華族・士族の戸口が加算されず、一部寺院の戸口加算不同があるせいだろうと記載されているが、他統計と比較すると、大多数の府藩県で皇族・華族・死刑の人口が加算されていない一方で、士族の人口は原則として加算されていると推測される。
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