ドイツ学の覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 05:31 UTC 版)
しかし学会設立の要因に際しては、先述のような東京大学内部の事情のみならず、当時憲法草案をほぼ完成していた伊藤博文が渡辺洪基(総長)に対し「大(おおい)ニ国家学ノ研究ヲ振興シ、普(あまね)ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコトガ極メテ必要デアル」と助言したこと大きく関わっている。つまり、明治十四年の政変の結果、英米系および仏系の法学が官立学校から排除され、これらの拠点が私立の法律学校にシフトしたことから、政府は私学に対抗し官学(=東大)をドイツ系法学・国家学の砦にしようとしたのである(阪谷芳郎の回想によれば、この点に関連して、当時「政府当局者が自由思想を抑圧し独逸系の国家学説を我邦に注入せんと試みんとするもの」という憶測が流れていた)。そのため国家学会の発足は、一般に「日本のアカデミズムにおけるドイツ学優位の確定」(石田雄)として位置づけられている。
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