ドイツ客船クライスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 05:37 UTC 版)
本船は、1906年(明治39年)、ドイツのシーヒャウ(英語版)社のダンツィヒ(現在のグダニスク)造船所で貨客船として建造された。船主は北ドイツ・ロイド(英語版)社(NDL)で、同社の将軍級客船(ドイツ語版)の一隻として「クライスト」と命名される。 「クライスト」の基本設計は、ドイツとオーストラリア・極東を結ぶ航路用の中型客船で、外観は3層の長い上部構造物に細長い1本煙突、傾斜した2本のマストを備えた。総トン数は約9000トンで、石炭焚きの四連成レシプロ機関2基により、スクリュー2軸を駆動して最高速力17ノットを発揮した。この当時の北ドイツ・ロイド社は、1897年進水の「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ」(約14000総トン)を皮切りに、1903年進水の「カイザー・ヴィルヘルム2世」(約19000総トン)など高速大型客船を大西洋航路に次々と就航させており、それらに比べると「クライスト」は小型であった。 竣工した「クライスト」は、予定どおり、主にスエズ運河経由でドイツとシンガポール、香港、上海港、神戸港、横浜港を結ぶ極東航路に配船された。1907年(明治40年)後半以降、毎年数回は神戸や横浜に寄港している。 1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦勃発時も「クライスト」は極東航路に就航していた。ドイツとイギリスの開戦直前にドイツの船会社は、自社の所属船舶にイギリス領の港湾を離れるよう指示した。「クライスト」は、中立国のオランダ領東インドに属するパダンのエマハーフェン港(現在のテルク・バユール港(英語版))に避難して戦争期間を過ごした。同年11月にドイツ巡洋艦「エムデン」の生き残り乗員が操縦するスクーナー「アイシャ(ドイツ語版)」がエマハーフェン港に立ち寄った際には、「クライスト」の乗員たちが煙草やワインなどを分け与えて歓迎している。ただし、大内健二は、第一次世界大戦中の「クライスト」はバルト海の港に係留されていたとする。1919年(大正8年)に第一次世界大戦がドイツの敗戦で終わると、「クライスト」はイギリスに回航された。
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