ドイツ実験心理学の登場
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「心理学の歴史」の記事における「ドイツ実験心理学の登場」の解説
19世紀中頃までは、心理学は概して哲学の一分野として扱われていた。例えば、イマヌエル・カント(1724年-1804年)は著書『自然科学の形而上学的基礎』(1786年)で、様々な理由の中でも、心理学的現象が数学的形式で表現できないという理由の為に、心理学は「厳密」科学となりえないと述べている。しかし、『実用的見地における人間学』(1798年)においてカントは、近代的視点からは経験的心理学に非常に近く見えるものを提議している。 ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(1776年–1841年)はカントの出した結論と対立した意見を持ち、科学的心理学の数学的基礎を発展させた。彼は自身の心理学用語を経験主義的に表すことはできなかったが、彼の努力によってエルンスト・ハインリヒ・ヴェーバー(1795年-1878年)やグスタフ・テオドール・フェヒナー(1801年-1887年)が外的刺激の物理的大きさとそれによって生じる感覚の精神的強度との数学的関係を計ることになった。フェヒナー(1860年)が初めて精神物理学という言葉を使った。 そのころ、天文学において反応時間の個人差が「個人誤差」の名の下に重大な問題となっていた。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル(1784年-1846年)によるケーニヒスベルクでの、あるいはアドルフ・ヒルシュによる、初期の研究によってマティアス・ヒップの非常に精確なクロノグラフの発明が促進され、これが、砲弾の速度を計測する装置というチャールズ・ホイートストンのデザインに基づくようになった。他の計時器は生理学から借用され(例えばキモグラフ)、ユトレヒトの眼科医フランキスクス・コルネリス・ドンデルス(1818年-1899年)や彼の弟子ヨハン・ヤコブ・デ・ヤーガーによって単純な心理的決定の持続期間を計る際に利用された。 19世紀は神経生理学などの生理学が専門化した時代でもあり、生理学史上の最も重要な発見のいくつかがなされている。その主導者としては、それぞれ独立に脊椎内での知覚神経と運動神経の分離を発見したチャールズ・ベル(1774年-1843年)およびフランソワ・マジャンディー(1783年-1855年)、特殊神経エネルギー説を唱えたヨハネス・ペーター・ミュラー(1801年-1855年)、筋収縮の電気学的基礎を研究したエミール・デュ・ボア=レーモン(1818年-1896年)、それぞれ異なる言語機能をつかさどる脳領域を明らかにしたピエール・ポール・ブローカ(1824年-1880年)とカール・ヴェルニッケ(1848年-1905年)、脳の運動野や知覚野を特定したグスタフ・テオドール・フリッチュ(1837年-1927年)、エドゥアルト・ヒッツィヒ(1839年ー1907年)、デイヴィッド・フェリア(1843年-1924年)らがいる。経験的生理学の第一の創始者の一人であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821年-1894年)は、後に心理学者の関心を惹くことになる議題―神経伝達速度、音と色の実体、音や色の認識の本性等々―の広範な研究を行った。1860年代には、彼はハイデルベルク大学で職を得ていたが、そこでヴィルヘルム・ヴントという名の若い医学博士を助手として雇った。ヴントは生理学研究室の器材―クロノスコープ、キモグラフ、様々な周辺的な道具―を用いて、それまで経験的に研究されていたよりも複雑な心理学的な問題を説明した。とりわけ、彼は統覚―認識が明確な意識の中心的な関心を占める領域―の実体に関心を抱いた。 ヴントは1874年にチューリヒで教授となり、画期となる教科書『生理学的心理学綱要』を発表した。1875年により名声高いライプツィヒの教授職に就くと、ヴントは1879年に専ら経験的心理学の独自の研究を行う研究室を創立したが、これは世界初のその種の研究室である。1883年には、自身や弟子の研究を発表する雑誌『哲学研究』(独:Philosophische Studien)を立ち上げた。ヴントはドイツのみならず外国からも非常に多くの学生を引き付けた。彼の最も影響力の高いアメリカ人の弟子にはグランヴィル・スタンレー・ホール(ウィリアム・ジェームズの監督下で既にハーヴァードから博士号を得ていた)、ジェームズ・キャッテル(ヴントの最初の助手)、フランク・アンゲルらがいる。最も影響力の高いイギリス人の弟子はエドワード・ティチェナー(後にコーネル大学教授となる)である。 実験心理学教室がカール・シュトゥンプ(1848年-1936年)によってベルリンで、ゲオルク・エリアス・ミュラー(1850年-1934年)によってゲッティンゲンで設立された。同時期のもう一人のドイツの著名な実験心理学者は、自身の研究室を管理したことはないものの、ヘルマン・エビングハウス(1850年-1909年)である。 このころのドイツ語圏で心理学に対するアプローチとして実験だけが行われているわけではなかった。1890年代に始まって、事例研究を用いてウィーンの医師ジークムント・フロイトが、自身が患者の「ヒステリー」の背後に横たわる原因だと説いた無意識の信念・欲望を推定的に明らかにするために催眠療法・自由連想・夢解釈を発展・応用した。彼はこの手法を精神分析と称した。フロイト派精神分析は病因において個々の性的発展過程に重点を置くことで特に著しい。精神分析的概念は西洋文化、特に芸術に対して今も強い影響を残している。その科学的功績には今も議論があるものの、フロイト心理学とユング心理学は、いくつかの行動や思考が意識から隠されているような―しかし人間の完全な一部として活動してはいる―分離された思考の存在を明らかにした。隠れた動機、やましい心、あるいは罪の意識は、個人の人格やその結果としての行動のいくつかの様相の理解の欠如や選択を通じた、個人が意識していない心理作用の存在の実例である。 精神分析は自我に作用する心的作用を考察する。これらの理解によって、神経症や時には精神病(リヒャルト・フォン・クラフト=エビングはこの両者を人格の病と定義した)に対する治療効果とともに個人の大きな選択や自意識が理論的に可能になる。カール・ユングはフロイトの同僚であったが、フロイトが性を強調することに端を発して彼と袂を分かった。1800年代に(ジョン・ステュアート・ミル、クラフト=エビング、ピエール・ジャネ、テオドール・フルールノワによって)初めて述べられた無意識の概念を用いて研究することで、ユングは、自我と関係して自我を規定する四つの精神機能を定義した。感覚(意識に何かの存在を伝える)、感情(価値判断からなり、感覚したものに対する反応の動機づけを行う)、思考(今起こっている出来事と知っている全ての出来事を比較し、今起こっている出来事に種類・範疇を付与して、歴史的・公的・個人的過程の中で理解できるようにする分析的機能)、直感(深い行動パターンに触れる心的機能であり、ユングいわく「間近に見たかのように」予期せざる結論を提起したり思いがけない結果を予言したりする機能を持つ)の四つがそれである。理論が心理学者の心的投影や期待に基づかず、事実に基づいている経験心理学をユングは提唱した。
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