設立の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 09:28 UTC 版)
1855年8月25日、カンザス準州はアラパホ郡を創設したが、この郡は準州の西部全体にわたる巨大なものだった。アラパホ郡の領域は次のように定義された。 ニューメキシコ準州の北東隅に始まり、そこから北にネブラスカ準州南境界すなわちカンザス準州北境界まで延ばす。そこからユタ準州東境界まで延ばす。そこからはユタ準州とカンザス準州の境界に沿ってニューメキシコ準州境界に至るまで降ろす。そこからはニューメキシコ準州とカンザス準州の境界に沿って始点に戻る。 アラパホ郡の当初は主にシャイアン族やアラパホ族が住んでおり、ほとんど白人はおらず、自治化されることは無かった(この郡の名残は現在デンバー大都市圏に入るアラパホ郡となっている)。 1858年7月、カンザス準州アラパホ郡ドライクリーク・ディギング(現在はコロラド州アラパホ郡イングルウッド)で金が発見されたことで、パイクスピーク・ゴールドラッシュが始まった。このゴールドラッシュでパイクスピーク・カントリーと呼ばれる地域に10万人の金を求める人々が集まった。この地域にはカンザス準州のアラパホ郡やネブラスカ準州南西隅の非自治領域が含まれていた。カンザス準州の指導者達は人口の多い東部地域で「血を流すカンザス」と呼ばれる暴力事件に忙殺されていたので、準州の最西部で起こっていることにかかずらう時間も気力もなかった。アメリカ合衆国議会も奴隷州による脱退問題に捕らわれていた。 この地域の開拓者は独力でアラパホ郡を組織化しようとした。1859年3月28日、選挙でアラパホ郡の役人が選ばれた。オーラリアの231人やデンバー市の144人を含む774人が投票した。この投票者達は1859年2月7日にカンザス準州議会がアラパホ郡を6つの新しい未組織郡で置き換えていたことを知らなかった。カンザス準州の役人から何の連絡もなく、多くの開拓者達は自分達で別の政府を樹立すべきと決心した。
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