設立の過程
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1951年(昭和26年)6月から1952年(昭和27年)3月まで、新制大学(国立大学の三重大学)の学内に委託された夜間大学を設置して公開講座を開設した。 以下の科目を中心に開講されていた。 政治学 社会学 法学 多くの三重県内・津市の勤労学生の受講生を集めて、夜間講座の受講生たちが津市に対して夜間の社会科学系の短期大学を設立する事を要請した。 夜間講座の受講生がそのまま、第1期三重短期大学法経科二部の入学生となった。 同時期に開学した公立短期大学は以下である。 長崎県立佐世保商科短期大学 北九州外国語大学短期大学部 鹿児島県立大学短期大学部 静岡県立法経短期大学 奈良県立短期大学 高知短期大学 戦後期にこれらの社会科学系の夜間の公立短期大学が設立された。 戦後の混乱期に法律や経済などの社会科学の専門的知識を学びたい勤労者や若者の意欲が公立の夜間短期大学の設立を推進した。 家政科(被服コース)設置について、1951年(昭和26年)に選出された堀川るつ(堀川美哉津市長夫人)の働きかけが大きかった。花嫁修業や夜間部以外の女子部を設置するなど伝統的な女子教育の色彩が強い良妻賢母型の教育機関設置が求められていた事情がある。また男女平等を推進する上で、女子が進学する大学教育機関が切望されていた。
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設立の過程
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『日本書紀』巻第十一、仁徳天皇13年の、 秋九月(ながつき)に、始めて茨田屯倉(まむたのみやけ)を立つ。因りて舂米部(つきしねべ)を定む とあるのが初出であり、この屯倉があった場所として、『和名類聚抄』の交野郡(かたのぐん)三宅郷の地(現在の大阪府交野市)が比定されている。 『書紀』巻第十一によると、仁徳天皇11年4月、天皇は群臣に詔して、 今朕(われ)、是の国を視れば、郊(の)も沢(さは)も曠(ひろ)く遠くして、田圃(たはたけ)少(すくな)く乏(とも)し。且(また)河の水(みづ)横(よこさま)に逝(なが)れて、流末(かわじり)駃(と)からず。聊(いささか)に霖雨(ながあめ)に逢へば、海潮(うしほ)逆上りて、巷里(むらさと)船に乗り、道路(みちおほち)亦(また)泥(うひぢ)になりぬ。故(かれ)、群臣(まへつきみたち)、共に視て、横(よこしま)なる源(うなかみ)を決(さく)りて海に通(かよは)せて、逆流(さかきこみ)を塞(ふさ)ぎて田宅(なりどころ)を全(またく)くせよ」(いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。また河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上がり、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ)訳:宇治谷孟 と言った。 それから半年後、 冬十月に、宮(難波高津宮)の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて、西の海に入る。因りて其の水を号(なづ)けて堀江と曰ふ 又将に北の河の澇(こみ=塵芥)を防(ほそ)かむとして茨田堤を築(つ)く という土木工事が完成した。これらの事業により耕地化が進み、2年後には茨田屯倉が設置された。以降も和珥池(わにのいけ)・依網池(よさみいけ)・横野堤(よこののつつみ)など他の多くの土木工事が行われていった。 これらの出来事は、『古事記』下巻に 又秦人(はたひと)をえたちて茨田堤及(また)茨田三宅を作り、又丸邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作り、難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江(をばしのえ)を掘り、又墨江の津を定めたまひき と簡潔に記されている。『書紀』には、 是歳(ことし)、新羅人(しらきひと)朝貢(みつきたてまつ)る。則ち是の役(えたち)に労(つか)ふ とも記述されている。 これらは大和政権による河内平野北部の開発の過程を示しており、また新羅からの渡来氏族である秦氏や茨田氏の技術によるものであることが、現在の寝屋川市の「秦町」・「川勝町」・「太秦町」などの地名によっても伝えられている。
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