カトリック教会の改革とは? わかりやすく解説

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カトリック教会の改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 06:14 UTC 版)

ヨーゼフ主義」の記事における「カトリック教会の改革」の解説

カトリック教会については、ヨーゼフ2世はこれを「瞑想的な宗教組織呼び社会貢献していないとして毛嫌いしていた。 ヨーゼフ2世勅令によって、オーストリア聖職者ローマ教皇庁直接接触することが禁じられた。1188堂あったオーストリア修道院のうち500堂以上が、またハンガリーにおける100堂以上が取り潰され6000フローリンもの教会財産国庫没収された。これを財源として、1700区の新たな小教区定められ福祉制度拡充された。また聖職者教育も、これまでこれを担ってきた教会から取り上げた代わりにヨーゼフ2世6つの国立「一般神学校」を設立した1783年発され婚姻特許では、婚姻宗教制度ではなく個人間の契約であると規定された。 1782年教皇ピウス6世オーストリア訪れヨーゼフ2世改革大部分取り消し求めたが、ヨーゼフ2世拒絶した1783年パッサウ大聖堂参事会ヨーゼフ主義に近い聖職者任命抗議行った。まずヨーゼフ2世直接働きかけたが拒絶され次にレーゲンスブルク帝国議会働きかけたが、ほとんど賛同者得られなかった。プロイセン支援打診したものの、ヨーゼフ主義信奉者だった司教ヨセフ・フランツ・アウエルシュペルクにより拒絶された。結局パッサウ司教参事会大部分は、教区内の世俗財産を守るためにヨーゼフ2世屈した1784年7月4日結ばれた合意により、それまで行われていたパッサウ教区財産権利没収停止取り消され十分の一税復活認められた。これと引き換えに、パッサウはアルダガーの支配権手放し40グルデン支払い義務を負わされた。なおこの金額は、新教設立の過程皇帝により半分減らされた。ヨーゼフ2世強権的改革前に教皇ピウス6世打つ手立てもなく、不本意ながら改革同意与えることしかできなかった。前述オーストリアパッサウ合意対し教皇1784年11月8日1785年1月28日二度にわたり認可与えた1785年以降ウィーン教会についての改革進められ、「これによりすべての音楽的な連祷、ノヴェナス、八重唱、古の感動的な献身宗教行事での行列晩課、その他似たようなもろもろ行事廃止された。」多く教会聖堂閉鎖され伝統ある宗教的な事業団体や修道院1784年以降その力を抑えられた。リンツ司教エルネスト・ヨハン・ネポムクは教会置かれ状況についての不満を何度も皇帝訴えた。しかしこの抗議はほとんど実を結ばなかった。 カトリック歴史家たちは、ヨーゼフ2世と反教会的なフリーメーソンたちが手を組んでいたと主張している。

※この「カトリック教会の改革」の解説は、「ヨーゼフ主義」の解説の一部です。
「カトリック教会の改革」を含む「ヨーゼフ主義」の記事については、「ヨーゼフ主義」の概要を参照ください。

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