カトリック教会の改革
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「ヨーゼフ主義」の記事における「カトリック教会の改革」の解説
カトリック教会については、ヨーゼフ2世はこれを「瞑想的な」宗教組織と呼び、社会に貢献していないとして毛嫌いしていた。 ヨーゼフ2世の勅令によって、オーストリアの聖職者はローマ教皇庁と直接接触することが禁じられた。1188堂あったオーストリアの修道院のうち500堂以上が、またハンガリーにおける100堂以上が取り潰され、6000万フローリンもの教会財産が国庫へ没収された。これを財源として、1700区の新たな小教区が定められ福祉制度が拡充された。また聖職者の教育も、これまでこれを担ってきた教会から取り上げた。代わりにヨーゼフ2世は6つの国立「一般神学校」を設立した。1783年に発された婚姻特許では、婚姻は宗教制度ではなく、個人間の契約であると規定された。 1782年、教皇ピウス6世がオーストリアを訪れ、ヨーゼフ2世に改革の大部分の取り消しを求めたが、ヨーゼフ2世は拒絶した。 1783年、パッサウの大聖堂参事会がヨーゼフ主義に近い聖職者の任命に抗議を行った。まずヨーゼフ2世に直接働きかけたが拒絶され、次にレーゲンスブルクの帝国議会に働きかけたが、ほとんど賛同者を得られなかった。プロイセンが支援を打診したものの、ヨーゼフ主義の信奉者だった司教ヨセフ・フランツ・アウエルシュペルクにより拒絶された。結局、パッサウの司教や参事会の大部分は、教区内の世俗財産を守るためにヨーゼフ2世に屈した。 1784年7月4日に結ばれた合意により、それまでに行われていたパッサウ教区の財産や権利の没収・停止が取り消され、十分の一税の復活も認められた。これと引き換えに、パッサウはアルダガーの支配権を手放し、40万グルデンの支払い義務を負わされた。なおこの金額は、新教区設立の過程で皇帝により半分に減らされた。ヨーゼフ2世の強権的な改革の前に、教皇ピウス6世は打つ手立てもなく、不本意ながら改革に同意を与えることしかできなかった。前述のオーストリアとパッサウの合意に対し、教皇は1784年11月8日と1785年1月28日の二度にわたり認可を与えた。 1785年以降、ウィーンの教会についての改革が進められ、「これによりすべての音楽的な連祷、ノヴェナス、八重唱、古の感動的な献身、宗教行事での行列、晩課、その他似たようなもろもろの行事は廃止された。」多くの教会や聖堂が閉鎖され、伝統ある宗教的な事業団体や修道院は1784年以降その力を抑えられた。リンツ司教エルネスト・ヨハン・ネポムクは教会の置かれた状況についての不満を何度も皇帝に訴えた。しかしこの抗議はほとんど実を結ばなかった。 カトリックの歴史家たちは、ヨーゼフ2世と反教会的なフリーメーソンたちが手を組んでいたと主張している。
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