カトリック教会の展開
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「キリスト教の歴史」の記事における「カトリック教会の展開」の解説
カトリック教会では宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会やフランシスコ会などが海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行った。ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。 こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリック教会は反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義、自由主義、共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説と教皇不可謬説を公式教義とし、他教派に対して不寛容な態度を取り続けた。さらに第一次世界大戦以降イタリア、ドイツ、スペインなどのファシズムに妥協的態度を取り、特にスペイン内戦ではフランコ派に協力し、第二次世界大戦ではナチスのユダヤ人虐殺ほかの残虐行為を黙認したという批判もある。 しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にて現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992年)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られる。 現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることもある。また、司祭の独身制の堅持についても批判されており、特に近年の米国において、カトリック教会聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。こうした影響もあり、西ヨーロッパでの教勢は低下し、主日(日曜日)のミサに参加する信者は少数派になっている。 中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリック教会の宣教がもっとも成功した地域であり、信者が減少しつつある現在でも比率は大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック教会内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。 アジア地域でのカトリック教会の宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東ティモールであり、その他の地域のカトリック人口は少数派に留まった。例外は韓国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては、1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。
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