設立までのいきさつ
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日本の野球界は長く学生野球がそのメインであったが、1913年(大正2年)にニューヨーク・ジャイアンツ・シカゴ・ホワイトソックスの混合チームである「世界周遊野球チーム」が来日したことや、ベーブ・ルースの活躍の話題が日本にまで届いていたことなどがあり、1920年(大正9年)1月には雑誌『野球界』上で「職業野球団組織の方策」というアンケート特集が組まれるなど、日本にもプロ野球をという動きが高まるようになった。 一方、当時の学生野球、特に大学野球の選手はスターとしてもてはやされるようになっており、その人気に溺れて学業をおろそかにしたり不祥事を起こしたりする選手が増えていたため、早稲田大学野球部部長の安部磯雄らはこの状況を憂いていた。ここで、早稲田OBであった河野安通志は、学生野球の腐敗は問題だが、かといって押さえつけるようなことをしては「角を矯めて牛を殺す」ことになると考え、学生たちの模範になるようなプロ球団を作ることで学生野球を浄化しようと提唱する。こうして、1920年、東京府東京市芝区(現:東京都港区)の芝浦に日本運動協会(商号:合資会社日本運動協会。以下、「協会」と表記)が設立された。 チーム設立の中心となったのは河野と、早稲田で河野のチームメイトであった押川清、橋戸信の3人である。橋戸が社長、河野と押川が専務を務めた。この3人の他には、中野武二、島田善介、桜井弥一郎、中澤不二雄といった後に野球殿堂入りする大学野球OBたちや、泉谷祐勝、大村一蔵、三島弥彦といった、河野らが所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のメンバー、河野の義兄であり、野球部の後輩になる飛田穂洲なども設立に協力している。飛田は生涯プロ野球を否定し続けたが、協会だけは例外であった。
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