チーム設立までのいきさつ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 15:12 UTC 版)
「スーパーアグリF1チーム」の記事における「チーム設立までのいきさつ」の解説
鈴木はかねてより30歳までにF1ドライバーになり、35歳で引退し、45歳までに自分のF1チームを持つという目標を抱いていた。1997年より国内ではARTAプロジェクトを運営し、2003年よりアメリカのIRLに「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」として参戦しながら、F1進出の機会を探っていた。 2005年2月に鈴木は、ホンダに、B・A・Rチーム株式の一部の買収によるチームの共同運営の話を持ちかけた。当時のB・A・Rは、チーム株の45%をホンダが、残りの大半をブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)が持っていたが、2006年のタバコ広告禁止によりBATの撤退が予想されていたことから、鈴木の提案は、技術部門をホンダが受け持ち、鈴木のマネジメント会社であるエー・カンパニー(後のスーパーアグリ運営会社)が、日本におけるプロモーションやスポンサー活動を担当する内容であった。 当時、国内外でレース活動を急拡大させ、元F1ドライバーのジャン・アレジとの接触などが話題となっていたディレクシブが、鈴木のF1参戦を支援したいとの意向を示していたため、その資金でB・A・Rの株式買収を行う予定であった。しかしディレクシブのバックグラウンドが明確でないこともあり、7月に、ホンダはこの提案を受け入れられないとの意向を示し、ホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) の和田康裕は、鈴木にミナルディの買収を持ちかけた。ディレクシブが突然活動を停止したことや、既にレッドブルとゲルハルト・ベルガーがミナルディと交渉していたことなどから、双方の提案を受け入れられなかった。 最終的に、鈴木はチームを一から設立するという方法をとる。近いうちにカスタマーシャーシの使用が解禁される見込みがあり、新規参入競争が始まる前に参戦枠を確保する必要があった(2005年には2つの空き枠があったが、スーパーアグリの参入後に行われた2008年シーズンのエントリー選考では、残り1枠を11の新チームが争った)。 鈴木は8月に、かつてラルース時代に、当時エンジン提供元だったランボルギーニのマネージャーを務めていたダニエル・オーデットに連絡を入れ、協力を要請した。オーデットはメナード・エンジニアリング社に所属しており、同社が所有していたリーフィールドの工場をオーデットが仕切っていたことも関係していた。9月16日に渡英し、リーフィールドのファクトリーでオーデットと話し合いを重ねた後、28日に再び渡英し、オーデットが集めたスタッフを含めた話し合いを行った。 当初はホンダから、2005年のB・A・R 007か2006年のホンダ・RA106の知的財産権を譲渡してもらうつもりだったが、コンコルド協定により使用できないことが判明し、10月25日に、シャーシを提供できないとホンダから伝えられた。 スーパーアグリは、2002年をもってF1から撤退したアロウズのA23をベースとしたマシンを使用することになった。
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