チーム設立までの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:19 UTC 版)
「プロスト・グランプリ」の記事における「チーム設立までの動き」の解説
F1で4度のワールド・チャンピオンを獲得したアラン・プロストは、現役時代より何回か自らのF1チームを立ち上げようと試みていた。 マクラーレン時代の1989年には、盟友でありマクラーレン・MP4シリーズのデザインなどで有名なジョン・バーナードと共同でチーム設立を試みた。この時はルノーエンジンの供給を受け、1stドライバーはプロスト自身、2ndドライバーはエリック・ベルナールを迎え、オールフレンチ体制で臨むことが内定したと噂されたが、スポンサーを得られずに話がご破算になり、結局プロストはフェラーリ入りすることになる。 1991年にフェラーリを解雇された直後には、やはりバーナードと組んでイギリスのトムスGBを母体にF1チームを立ち上げようと試みた(そのためバーナードは一時的にトムスに移籍している)。プロストらはトムスの事実上の親会社であり、当時スポーツカー世界選手権(SWC)参戦用にトヨタ・TS010を開発していたトヨタに、同車に搭載される3.5リッターNA・V10エンジン を供給してもらうことを目論んでいたが、最終的にトヨタにエンジン供給を断られたため計画は頓挫した。 そのためプロストはリジェ買収に方向を転換し、まずはドライバーとして自らリジェのマシンをテストドライブしたが、オーナーシップの譲渡について交渉がまとまらなかったこと、ルノーV10エンジンを得てもチャンピオンシップを争うレベルではないと判断、1992年シーズン1年間の浪人生活を送る決断を下した。 翌1993年、ウィリアムズに加入しワールドチャンピオンに輝き、有終の美を飾る形でを引退し、テレビ解説者を務めながら新たな機会を探った。ホンダ撤退後、最強エンジンメーカーであったルノーのアンバサダーに就任したが、ルノーから支援の確約を得られなかった。その間にも、リジェの所有権は創始者のギ・リジェ→シリル・ド・ルーブル→フラビオ・ブリアトーレ→ブリアトーレとトム・ウォーキンショーの共同、と転々としていた。 1996年、モナコGPでリジェのオリビエ・パニスが優勝したことから、フランス国内でフランスチームの復権を望む機運が高まる。折しも、ウォーキンショーがリジェの完全買収が座礁に乗り上げたことで手放す(その上でアロウズを買収した)。プロストは各方面から後押しを受けて1994年にF1に参戦して以来、まだ勝利のないプジョーと接近し、リジェ買収に名乗りを上げた。 プジョーとの提携、およびリジェからのチーム名変更は、プロスト本人よりも政界 や出資者の意向だったとされる。名称変更には全チームの承認が必要とされたが、プジョーエンジンを失う可能性があるジョーダンが反対したため、参戦決定までが難航した。1997年2月14日に「プロスト・グランプリ」の発足が正式発表され、あわせて1998年より3年間契約でプジョーエンジンの供給を受けることがアナウンスされた。リジェ時代から続くゴロワーズタバコのほか、アルカテルやCanal+、ビックなどのフランス系企業ともスポンサー契約が結ばれた。
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