マクラーレン時代とは? わかりやすく解説

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マクラーレン時代(第1期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:25 UTC 版)

アラン・プロスト」の記事における「マクラーレン時代(第1期)」の解説

1980年 開幕戦アルゼンチンGPにて、マクラーレン・M29F1デビュー予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦ブラジルGPでも5位に入った他、第8戦イギリスGPで6位、第11戦オランダGPで新シャシーM30をドライブし6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度入賞記録しランキング15位。チームメイト先輩ジョン・ワトソン対し予選では13勝1敗と大きく勝ち越した。 チーム低迷期だったことから、シャシー開幕時のM29、第5戦からM29C、第11戦からM30と変更続きで、信頼性不足でもありマシン側に起因する事故数回経験し第3南アフリカGPでは予選初日にサスペンショントラブルでクラッシュ左手首を骨折してしまい同GP決勝と第4戦アメリカ西グランプリ欠場最終戦アメリカ東グランプリワトキンス・グレン)でも予選クラッシュ見舞われプロスト頭部に強い衝撃受けたため決勝欠場している。 マクラーレンとは複数年契約なされていたが、この年地元フランスのルノー・ワークスからオファー受けて移籍決意マクラーレンにはロン・デニス合流した直後組織改革進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンと、デニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約破棄した

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マクラーレン時代(第2期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:25 UTC 版)

アラン・プロスト」の記事における「マクラーレン時代(第2期)」の解説

1984年 既に2度ドライバーズチャンピオン獲得していたニキ・ラウダチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった予選では16戦中15戦でラウダ上回るなど、純粋な速さでは圧倒したが、タイトル争いプロスト勝てば次はラウダラウダ勝てば次はプロストと常に一進一退緊迫した展開となった。 しかし確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダ次第に差を広げプロストは第14イタリアGPリタイアした時点自力チャンピオン可能性を失う。それでも第15ヨーロッパGP優勝し望み繋ぎ3.5ポイント差を追う状況最終戦ポルトガルGP迎えた自身優勝しラウダ3位以下なら逆転チャンピオンという条件の中、ラウダ予選11位に埋もれプロスト予選2位フロントロー得た決勝でもプロストレース大半リードして優勝飾ったが、対すラウダ後方グリッドからファステスト・ラップ出しながらの追い上げとなり、ファイナルラップ2位浮上しチェッカーを受ける。その結果0.5ポイント差という、史上最小得点差でプロストチャンピオン逃したこの年シーズン7勝は、当時歴代1位タイ記録だった(対すラウダは5勝)。また、プロストのF1キャリア唯一の年間通しての総獲得ポイントチームメイト負けたシーズンとなった1988年アイルトン・セナチャンピオンの座を取られているが、当時有効ポイント制1988年場合は、16戦中11戦のポイント採用)が採用されていた為、年間通しての総獲得ポイントではプロスト105ポイントセナ94ポイントで、プロストの方が11ポイント多い) この年までのプロストは、予選から速さ前面押し出す激しスタイルだったが、2年連続僅差チャンピオン逃したこと、特にこの年ラウダ決勝レース照準合わせた走り強さ身をもって体感したことが教訓となり、後のドライビングスタイル大きく影響したシーズンとなった。 また結果論ではあるが、第6戦モナコGPでの行為が、チャンピオン争い影響したとしばしば話題上がることとなった豪雨となったレースで、プロスト危険なコンディションであるためにレース早期終了アピール規定周回数以下でレース打ち切りとなり、優勝したプロストには本来の半分4.5ポイント与えられた。しかし、もしそのままレース続行されていれば猛追していたアイルトン・セナステファン・ベロフに仮に抜かれていたとしても、正規ポイントならば2位でも6ポイント獲得でき、ラウダ抑えてチャンピオン獲得していたことになるためである。 1985年 開幕戦ブラジルGP優勝し幸先良いスタートを切るラウダには前年までの強さ見られず、この年をもって引退チャンピオン争いフェラーリミケーレ・アルボレートとの一騎打ちとなる。共に安定した成績収めており、シーズン開始から中盤にかけては、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど、ポイント数は拮抗していたが、第12戦イタリアGP以降アルボレートの成績突如乱れ終盤5戦は全てノーポイントに終わる。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦着実にポイント重ねていたためこの差が明暗を分け最終的には5勝を含め11回の表彰台獲得し20ポイント差でチャンピオン獲得フランス人として初の栄誉となった1986年 第3サンマリノGPシーズン勝利を記録し、第4戦モナコGPでも連勝となったこの年はウィリアムズ・ホンダ勢のマンセルピケとのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦カナダGPからの4戦連続表彰台ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでの優勝など確実に結果残しチャンピオン可能性残したまま最終戦オーストラリアGP迎えたプロストこの段階でランキング2位64ポイント獲得しており、ランキング首位マンセル70ポイント)に6ポイント差をつけられており、オーストラリアGPマンセル逆転してチャンピオンなるにはプロスト自身優勝し、かつマンセルが4位以下」という同年これまでの成績鑑みれば極めて不利な条件付いていた。レースでもゲルハルト・ベルガー接触し32周目に予定外のピットイン強いられるなど苦しい展開となったが、この際プロストタイヤの摩耗予想下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換必要なし」という判断伝え、これがレース終盤争い影響を及ぼす。 まず63周目にそれまでトップ独走していたチームメイトケケ・ロズベルグの右リアタイヤバーストリタイアすると、64周目に代わってトップ立ったマンセルも左リアタイヤバーストさせリタイアとなった。これによりグッドイヤーから「ピケタイヤ交換した方がいい。安全を保障できないと言われたウィリアムズ・ホンダ陣営65周目にマンセルに代わってトップ立ったピケタイヤ交換急遽行いこの間プロスト首位立ったその後燃費問題抱えたマシンピケ猛追抑えたプロストそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった2年連続王座1959年1960年ジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。 1987年 開幕戦ブラジルGP制し第3ベルギーGPでは同僚ステファン・ヨハンソンとの1-2フィニッシュシーズン2勝目挙げランキングトップに立つなど好調な序盤だったが、前年同じくウィリアムズピケマンセルがホンダ・ターボパワーの優位生かしシーズン支配したプロスト年間3勝を上げたものの、搭載するTAGポルシェエンジンとホンダエンジンとのパワー差から苦戦強いられランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身通算28勝目となり、1973年ジャッキー・スチュワート記録した最多優勝回数2714年ぶりに更新しF1史上最多勝利となったまた、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14メキシコGPまでタイトル可能性残していた。 第15日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾26位)まで順位落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース35周目にプロスト記録したファステストラップ1分43秒844は、優勝したフェラーリベルガーのベストラップ1分45秒540より1.7秒も速いのだったジャーナリストのアラン・ヘンリーはこの時の走り絶賛し、「すでにチャンピオン可能性無くマクラーレンチームリーダーとしての自尊心だけが原動力であり、彼に何の見返りもなくても恐ろしく速く走る能力があることを証明した」と称えた1987年イタリアグランプリ開催中9月4日来季からのマクラーレンホンダ提携発表され翌年からプロストもホンダパワーで戦えることになった1988年 ホンダ・RA168Eエンジン合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入チームメイトにはロータスからアイルトン・セナ加入この年マクラーレン開幕から11連勝する新記録を樹立し、プロストセナ2人で全16戦中15勝を挙げるなどシーズンを完全に席巻した。加えて15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにするレースもあるなど他を圧倒したシーズンだった。 チーム体制ジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトル繰り広げポイント分散したチャンピオン争い最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗スタート直後プロストセナ幅寄せ行い1周目終了のメインストレートではセナ報復するかのように幅寄せ行ったこれを機にそれまで良好な関係を築いていたセナとの間に溝が出来始める。タイトル争い終盤までもつれ込むが、第15日本GPセナ抜かれ2位終わりそのままセナ初タイトル獲得決定したプロスト16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績残し、総獲得ポイントではセナ11ポイント上回っていたが、当時有効ポイント制により王座逃す結果となった1989年 ターボエンジンからNA(自然吸気)エンジンへとレギュレーション改革されこの年も、マクラーレン・MP4/5は全16戦中10勝をあげる高い戦闘力持っていたが、チームメイトであるセナとの確執は、この年第2戦サンマリノGP決定的となる。フェラーリのベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナプロストの間には、『スタート直後最初のコーナー抜けるまではお互い勝負しない』という「紳士協定」が結ばれていた。スタート先行したプロストではあったが、最初のコーナータンブレロとするかトサとするかで2人解釈齟齬生じセナはトサコーナーであっさりとプロスト抜き去ってしまった(1回目スタート時セナ先行したため問題発生しなかった)。紳士協定反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者義務づけられている記者会見ボイコットし自家用ヘリサーキット去り後日罰金科せられた。 チーム崩壊恐れたロン・デニスデニスはこの紳士協定関知していなかった)を交えた翌週三者会談で、セナは「紳士協定1回目スタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口ブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニス促され最後渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合い内容口外しない」という紳士協定プロスト破りセナ不誠実さに対す非難交えながら仏紙レキップ記者リーク2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。 その後デニス説得にもかかわらずプロストシーズン中盤の地元フランスGP前にマクラーレン離脱発表決勝レースでは一度トップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額契約金オファーされるが、最終的にフェラーリへ移籍決断フェラーリ地元イタリアGP前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾るホンダ記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリア観衆熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になったこの際表彰式時に契約チーム所有物である優勝トロフィー地元ファン投げ与えてしまい、デニス不快感示したまた、度重なるエンジン待遇差別発言業を煮やしていたホンダ怒り頂点達しプロストへのエンジン供給停止通告してきた。後日プロストは、トロフィーレプリカで「弁償」するとともにホンダにも謝罪した日本GP予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストウィング若干寝かせストレートでのスピード伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する決勝レースでは、スタートセナ前に出たプロストは、セナコーナー接近して直線引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回最終コーナー手前シケインイン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーアプローチしたプロスト接触し両者並んでコース上に停止即座にマシン降りたプロストコントロールタワー向かい接触原因セナ無謀な追い越しにあると非難した一方コース復帰しトップチェッカー受けたセナは、レース後に「コース復帰時のシケイン不通過」を理由失格裁定下された。これに対して多くドライバーから「シケイン通過できなかったとき、マシンUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコース復帰したセナ行為を危険と見なすのはおかしい」という抗議なされたため、セナ失格理由は「押しがけ(これは元々レギュレーション禁止されている)」に変更された。 接触をめぐり、プロストセナのどちらが悪いかでメディアファンの間で論争続いたプロストレース前メディアに対してセナに対してもうドア開けない譲らない)」と宣言しており、それを実行したとなった2週間後の最終戦オーストラリアGP決勝は「豪雨のため危険すぎる」としてプロスト棄権したが、タイトルを争うセナ雨中で他車に追突しリタイア、ノーポイントに終わったために日本GPでのセナ裁定結果待たずに、3度目ワールドチャンピオン獲得した

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