マクラーレン時代(第1期)
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「アラン・プロスト」の記事における「マクラーレン時代(第1期)」の解説
1980年 開幕戦アルゼンチンGPにて、マクラーレン・M29でF1デビュー。予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦ブラジルGPでも5位に入った他、第8戦イギリスGPで6位、第11戦オランダGPで新シャシーM30をドライブし6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度の入賞を記録し、ランキングは15位。チームメイトの先輩ジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越した。 チーム低迷期だったことから、シャシーが開幕時のM29、第5戦からM29C、第11戦からM30と変更続きで、信頼性不足でもありマシン側に起因する事故も数回経験し第3戦南アフリカGPでは予選初日にサスペンショントラブルでクラッシュし左手首を骨折してしまい同GP決勝と第4戦アメリカ西グランプリを欠場、最終戦アメリカ東グランプリ(ワトキンス・グレン)でも予選でクラッシュに見舞われプロストは頭部に強い衝撃を受けたため決勝を欠場している。 マクラーレンとは複数年契約がなされていたが、この年地元フランスのルノー・ワークスからオファーを受けて移籍を決意。マクラーレンにはロン・デニスが合流した直後で組織改革が進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンと、デニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約を破棄した。
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マクラーレン時代(第2期)
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「アラン・プロスト」の記事における「マクラーレン時代(第2期)」の解説
1984年 既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さでは圧倒したが、タイトル争いはプロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。 しかし確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦イタリアGPをリタイアした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。それでも第15戦ヨーロッパGPで優勝し望みを繋ぎ、3.5ポイント差を追う状況で最終戦ポルトガルGPを迎えた。自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転チャンピオンという条件の中、ラウダが予選で11位に埋もれ、プロストは予選2位でフロントローを得た。決勝でもプロストはレースの大半をリードしての優勝を飾ったが、対するラウダは後方グリッドからファステスト・ラップを出しながらの追い上げとなり、ファイナルラップで2位に浮上しチェッカーを受ける。その結果0.5ポイント差という、史上最小得点差でプロストはチャンピオンを逃した。この年のシーズン7勝は、当時歴代1位タイの記録だった(対するラウダは5勝)。また、プロストのF1キャリアで唯一の「年間を通しての総獲得ポイントでチームメイトに負けた」シーズンとなった(1988年はアイルトン・セナにチャンピオンの座を取られているが、当時は有効ポイント制(1988年の場合は、16戦中11戦のポイントが採用)が採用されていた為、年間を通しての総獲得ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントで、プロストの方が11ポイント多い) この年までのプロストは、予選から速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの決勝レースに照準を合わせた走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。 また結果論ではあるが、第6戦モナコGPでの行為が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がることとなった。豪雨となったレースで、プロストは危険なコンディションであるためにレースの早期終了をアピール。規定周回数以下でレースは打ち切りとなり、優勝したプロストには本来の半分の4.5ポイントが与えられた。しかし、もしそのままレースが続行されていれば、猛追していたアイルトン・セナとステファン・ベロフに仮に抜かれていたとしても、正規のポイントならば2位でも6ポイントを獲得でき、ラウダを抑えてチャンピオンを獲得していたことになるためである。 1985年 開幕戦ブラジルGPで優勝し幸先の良いスタートを切る。ラウダには前年までの強さは見られず、この年をもって引退。チャンピオン争いはフェラーリのミケーレ・アルボレートとの一騎打ちとなる。共に安定した成績を収めており、シーズン開始から中盤にかけては、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど、ポイント数は拮抗していたが、第12戦イタリアGP以降アルボレートの成績は突如乱れ、終盤5戦は全てノーポイントに終わる。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねていたためこの差が明暗を分け、最終的には5勝を含め11回の表彰台を獲得し、20ポイント差でチャンピオンを獲得。フランス人として初の栄誉となった。 1986年 第3戦サンマリノGPでシーズン初勝利を記録し、第4戦モナコGPでも連勝となった。この年はウィリアムズ・ホンダ勢のマンセル、ピケとのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦カナダGPからの4戦連続表彰台、ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでの優勝など確実に結果を残し、チャンピオンの可能性を残したまま最終戦オーストラリアGPを迎えた。 プロストはこの段階でランキング2位の64ポイントを獲得しており、ランキング首位のマンセル(70ポイント)に6ポイント差をつけられており、オーストラリアGPでマンセルを逆転してチャンピオンとなるには「プロスト自身が優勝し、かつマンセルが4位以下」という同年これまでの成績を鑑みれば極めて不利な条件が付いていた。レースでもゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開となったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これがレース終盤の争いに影響を及ぼす。 まず63周目にそれまでトップを独走していたチームメイトのケケ・ロズベルグの右リアタイヤがバーストしリタイアすると、64周目に代わってトップに立ったマンセルも左リアタイヤをバーストさせリタイアとなった。これによりグッドイヤーから「ピケのタイヤを交換した方がいい。安全を保障できない」と言われたウィリアムズ・ホンダ陣営は65周目にマンセルに代わってトップに立ったピケのタイヤ交換を急遽行い、この間にプロストが首位に立った。その後、燃費に問題を抱えたマシンでピケの猛追を抑えたプロストがそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。 1987年 開幕戦ブラジルGPを制し、第3戦ベルギーGPでは同僚・ステファン・ヨハンソンとの1-2フィニッシュでシーズン2勝目を挙げランキングトップに立つなど好調な序盤だったが、前年と同じくウィリアムズのピケとマンセルがホンダ・ターボパワーの優位を生かしシーズンを支配した。プロストは年間3勝を上げたものの、搭載するTAGポルシェエンジンとホンダエンジンとのパワー差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身の通算28勝目となり、1973年にジャッキー・スチュワートが記録した最多優勝回数27を14年ぶりに更新しF1史上最多勝利者となった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。 第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中35周目にプロストが記録したファステストラップ1分43秒844は、優勝したフェラーリのベルガーのベストラップ1分45秒540より1.7秒も速いものだった。ジャーナリストのアラン・ヘンリーはこの時の走りを絶賛し、「すでにチャンピオンの可能性も無く、マクラーレンのチームリーダーとしての自尊心だけが原動力であり、彼には何の見返りもなくても恐ろしく速く走る能力があることを証明した」と称えた。 1987年イタリアグランプリ開催中の9月4日、来季からのマクラーレンとホンダの提携が発表され、翌年からプロストもホンダパワーで戦えることになった。 1988年 ホンダ・RA168Eエンジンに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはロータスからアイルトン・セナが加入。この年、マクラーレンは開幕から11連勝する新記録を樹立し、プロストとセナ2人で全16戦中15勝を挙げるなどシーズンを完全に席巻した。加えて15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにするレースもあるなど他を圧倒したシーズンだった。 チーム体制がジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトルを繰り広げ、ポイントは分散した。チャンピオン争いの最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの間に溝が出来始める。タイトル争いは終盤までもつれ込むが、第15戦日本GPでセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナの初タイトル獲得が決定した。プロストは16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績を残し、総獲得ポイントではセナを11ポイント上回っていたが、当時の有効ポイント制により王座を逃す結果となった。 1989年 ターボエンジンからNA(自然吸気)エンジンへとレギュレーションが改革されたこの年も、マクラーレン・MP4/5は全16戦中10勝をあげる高い戦闘力を持っていたが、チームメイトであるセナとの確執は、この年の第2戦サンマリノGPに決定的となる。フェラーリのベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の最初のコーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という「紳士協定」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリでサーキットを去り、後日罰金を科せられた。 チーム崩壊を恐れたロン・デニス(デニスはこの紳士協定を関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レキップの記者にリーク。2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。 その後、デニスの説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。 日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触し、両者は並んでコース上に停止。即座にマシンを降りたプロストはコントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後に「コース復帰時のシケイン不通過」を理由に失格の裁定を下された。これに対して多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ(これは元々レギュレーションで禁止されている)」に変更された。 接触をめぐり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いた。プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており、それを実行した形となった。2週間後の最終戦オーストラリアGP決勝は「豪雨のため危険すぎる」としてプロストは棄権したが、タイトルを争うセナが雨中で他車に追突しリタイア、ノーポイントに終わったために日本GPでのセナの裁定結果を待たずに、3度目のワールドチャンピオンを獲得した。
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