マクラーレン移籍とF1引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:11 UTC 版)
「ケケ・ロズベルグ」の記事における「マクラーレン移籍とF1引退」の解説
1986年は四強の一角であり、前年度のチャンピオンチームであるマクラーレンに移籍。開幕前にロン・デニス監督は「アラン・プロストとケケ・ロズベルグは二人ともNo.1ドライバーで同等」としていた。TAGポルシェエンジンを搭載するMP4/2Cをドライブするが、前年までドライブしていたホンダエンジンの競争力が更に向上したことなどから苦戦。加えて、F1のターボエンジン化により強いられた燃費を気にした走行への嫌悪感から、シーズン中の第10戦西ドイツGPにて同年限りでのF1引退を発表。「燃費競争に陥ったF1なんか興味無いよ。アクセル全開で走れる本当のF1はどこに行ったんだい?」とコメントした。引退会見直後に行われた予選ではPPを獲得し意地を見せた。 引退レースとなった最終戦オーストラリアGPでは、7周目からトップを独走してライバルたちを翻弄、一時は30秒近いリードを奪うが、右リアタイヤがバーストしてリタイアに終わる。マシンを降りた後、コース上を走り去るチームメイトのプロストに向かってサムアップするシーンも話題となった。その後、タイトルに最も近い位置にいたマンセルにも同じトラブル(マンセルの場合は左リアタイヤがバースト)が襲いリタイア、2名がリタイアしたあとトップに立ったのはネルソン・ピケだったが、グッドイヤー首脳から「交換しないとタイヤの安全性を保障できない」と言われたウィリアムズピットがピケのタイヤ交換を強いられピットインし後退。レース序盤にパンクを喫し予定外のタイヤ交換をしていたプロストが優勝。6ポイント差をひっくり返し逆転でワールドチャンピオンを獲得した。 このレースについて、レース後ロズベルグはマスコミに対し「普段より(ターボエンジンの)ブースト圧を下げて大事を取っていたのに独走した。このまま引退するのももったいないぞ、と思った」とジョーク交じりで述べていたが、一方で「チームがタイトルを獲得することの重要性を理解していた」とも語っており、実際には燃費やブレーキ寿命・タイヤ寿命を無視したハイペースでレース序盤を撹乱し、ウィリアムズ2台のタイヤを疲弊させてチームメイトであるプロストのタイトル獲得を助ける戦略であった。プロストは「あのレース前にケケがどんな手を使っても君をチャンピオンにするために助けるから、と言ってくれて、あの時のケケをよく思い出すよ」と翌年のインタビューで感謝を述べている(但し、このレースではマンセルが3位以内なら、仮にプロストが優勝してもタイトルはマンセルが取ってしまうため、その場合プロストはF1ラストレースだったロズベルグに優勝を譲る計画もあった)。
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