裁定・結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:30 UTC 版)
文禄4年(1595年)の時点で秀吉は事態を重く見て、大老の前田利家に調停を任せた。また、同じく上杉景勝には津川城に城将を入れるよう命じ、不測の事件発生に備えた。しかし、状況は好転せず、このような一連のお家騒動の混乱が、慶長3年(1598年)に伏見にあった秀吉のもとに届いた。秀吉は直ちに郷安を召還して取り調べたが、微罪であるとして加藤清正にその身柄を預けた。一方、秀行に対しては「御家の統率がよろしくない」として、会津若松92万石から下野宇都宮12万石に減封した。 その後、会津には新たに越後春日山から上杉景勝が120万石で入った(この際に、越後の東蒲原も津川城に入った藤田信吉に任された)。
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