親政の開始とポンパドゥール夫人
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「ルイ15世 (フランス王)」の記事における「親政の開始とポンパドゥール夫人」の解説
フルーリー枢機卿が死去して親政を開始した時点で、ルイ15世は33歳になっていた。彼は肖像画の通り美男子であり、体格も良く教養に富んでいたが、内気で臆病な性格であり、政治にあまり関心を持たず、もっぱら趣味の狩猟に興じる日々を送り、狩猟のための馬や犬の調教に熱心で「王は犬馬のために、犬馬の労を厭わない」と評された。 1744年、ルイ15世はオーストリア継承戦争で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征したが、この出征にシャトールー夫人が同行したことが世間の不評を買っていた。8月にルイ15世はメスで病に倒れ、重体に陥った。従軍聖職者は赦罪のために愛妾と別れることを求め、ルイ15世はこれに従って懺悔し、シャトールー侯爵夫人は追い返された。ルイ15世は回復し、国民は彼を「愛しの君」と呼んだ。しかしながら、ルイ15世の女性関係はすぐに元に戻ってしまった。この年の終わりにシャトールー侯爵夫人は死去し、国王は寵姫の死をひどく悲しんだ。 後にポンパドゥール夫人と呼ばれることになるジャンヌ=アントワネット・ポワソンは1745年2月に仮面舞踏会でルイ15世と出会った。知的で教養がある彼女は国王を魅了し、5月に彼女はポンパドゥール侯爵領を与えられ、正式にルイ15世の公妾となった。それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女がブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗にさらされることになる。 ポンパドゥール夫人はヴェルサイユ宮殿の3階に住まい、ここで国王は退屈で煩わしい宮廷儀礼から逃れて寛ぎ、ブルジョア風の生活を好んだ。 ポンパドゥール夫人は体を壊したため1750年以降は公妾を退き、国王とは友人として付き合った。性的関係はなくなったものの、彼女は国王から深く信頼され有力な助言者となった。ポンパドゥール夫人は政界にポンパドゥール派と呼ばれる派閥を形成し、「私が支配する時代」と自ら言うほどの権勢を持つことになる。ポンパドゥール夫人の奢侈と浪費は当時の人々から非難されたが、彼女は芸術家のパトロンとなり、ルイ15世時代のフランス芸術の発展に無視しえない貢献をなしている。セーヴルに王立磁器製作所を設立してセーヴル焼を完成させたこと、パリに陸軍士官学校(fr)を設立させたのもポンパドゥール夫人の貢献である。彼女は建築家のパトロンにもなり、パリ市内のルイ15世の屋敷(現在のコンコルド広場)やエコール・ミリテールの建築をしたアンジュ=ジャック・ガブリエルに出資している。また、彼女は啓蒙思想を擁護して百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた貢献もある。 一方で彼女は「鹿の園」(Parc-aux-Cerfs)と呼ばれる個人的な娼館をつくり、多数の若い女性たちに国王への性的奉仕をさせた。「鹿の園」の娼婦の一人マリー=ルイーズ・オミュルフィの裸体画が現代に残されている。この様な乱脈な女性関係が元で、国王は処女の血の風呂に浴しているだの、90人の非嫡出子がいるだのといった淫らな噂がフランス中に流れてしまった。 オーストリア継承戦争ではフランスはプロイセン側に立ち、オーストリア、イギリスそしてオランダ共和国と戦った。1742年、シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イルがフランス軍を率いてバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを神聖ローマ皇帝カール7世、ボヘミア王に擁立、1745年のフォントノワの戦いではモーリス・ド・サックス率いるフランス軍がイギリス軍に大勝している。1748年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギーなど)を占領し、フランスの長年の念願だった国境をライン川にまで押し出すことに成功したかに見えた。 だが、1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロレーヌ公フランソワの神聖ローマ皇帝位を承認し(カール7世はオーストリアの反撃を受けてバイエルンを占領され、1745年に崩御)、ネーデルラントの占領地を返還するという、フランスに全く利益をもたらさない結果となった。このため、ルイ15世は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落した。
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