哲宗期
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神宗の死後、まだ10歳の皇太子趙煦が即位して哲宗となる。少年の皇帝に代わって政権を執ることになったのが、英宗の皇后であった宣仁太后高氏である。宣仁太后は実家が新法の被害を受けていたこともあり、新法を非常に憎んでいた。 宣仁太后は司馬光を初めとした旧法党を呼び寄せ、司馬光を尚書左僕射・呂公著を尚書右僕射(宰相。元豊の改革によって官名が変わっている)とし、保甲法・市易法・方田法を相次いで廃止。元号が元祐と改まった翌年には、新法党の蔡確・章惇らを追放し、青苗法・募役法を廃止した。江寧に隠棲していた王安石は募役法の廃止を聞き大いに嘆いたという。また旧法党内部でも、蘇軾・范純仁らは募役法の効能を認め、廃止に反対していたが、これが司馬光の不興を買い、蘇軾は再び中央を去ることになる。蘇轍もまた、曾布によって行われた州から中央に財務報告を上げる時に必ず転運司に整理させてから報告させるようにした改革を司馬光が元の州から直接報告させる方式に戻そうとした時に反対の上奏を行っている(蘇轍も州から中央への直接報告には批判的で曾布と似た改革案を持っていた)。王安石・神宗親政時代に行われた法律や方針が全国隅々で覆され、ついには(王安石・神宗親政時代に)西夏から獲得した領土まで返還するということまで行われてしまうまでになる。 この年の4月に王安石が江寧で死去。そして9月には司馬光も死去してしまう。司馬光は新法を廃止した段階で死去してしまい、結局新法に代わる方策を打ち出せないままであった。そして旧法党は司馬光というリーダーを失い内部分裂を始める。後を受けた旧法党内部には、派閥として程顥・程頤兄弟の洛党(洛陽)、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀党、それに河北出身者による朔党があったが、特に蘇軾と程頤とは学問上の争いもあって折り合いが悪く、何度も衝突していた。 新旧両党の争いは、この時期になると当初の政策をめぐる論争という面影は無くなり、感情と強迫観念による権力闘争に堕していた。その嚆矢となったのは、1089年(元祐4年)の蔡確に対する弾劾であった。蔡確の作った詩が宣仁太后を非難する内容であるとされ、流刑となったのである(蔡確は流刑先で死去)。旧法党でも范純仁らがこの処置に反対したが、彼らまでもが処罰を受けるという有様であった。また「新法によって被害を受けた」という訴えを受け付ける訴理所という役所を設置したりもした。これら元祐年間の反新法政策を元祐更化と呼ぶ。もっとも、この時期になると、新法党の官人もわずかながら復権するようになり、一方旧法派では新法派に対して強硬な態度を示していた劉摯・劉安世らが失脚するなどの動揺がみられるようになる。 1093年(元祐8年)、宣仁太后が死去。翌1094年より紹聖と改元し、哲宗の親政が始まる。哲宗は父の神宗を崇拝し新法にも大変心を寄せていたことから、新法党の章惇が呼び戻されて宰相に任命された。章惇は同僚の曾布や蔡卞と共に、青苗法・募役法などの新法を復活させ、「紹聖の紹述」と呼ばれる政権運営を行っていった。この再方針転換により行政の混乱と赤字は解消された一方で、様々な「旧法派による陰謀」が告発される疑獄事件がおこった(洛獄・同文館の獄)。章惇たちは、この流れに乗じて看詳訴理局(旧法党の訴理所の新法党版)という役所を設け、かつて訴理所に訴え出てきた人物を処罰していくなど、旧法党人士への徹底した報復を行った。 だが、政権を取り返した新法党内部も一枚岩ではなく領袖三人(章惇・曾布・蔡卞)が「新法の進め方や対外政策」をめぐって内部対立(組織内の派閥争い)を度々おこしていたとする指摘や、新法の運用方法においても、王安石時代の熙寧年間の政策を基調に置く考えと王安石引退後の元豊年間すなわち神宗親政期の政策を基調に置く考え(哲宗はこの考え方に立っていた)とのあいだで意見齟齬があったとする指摘もある。
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