二条親政期
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平治元年(1159年)12月、宗盛は清盛の熊野参詣に同行していたが、その途上で平治の乱が勃発する。清盛はすぐに都へ引き返すと、二条天皇を内裏から六波羅に脱出させることに成功する。官軍の立場を得た清盛は藤原信頼・源義朝を打ち破り、乱は平氏の勝利に終わった。12月27日、乱を鎮圧した勲功を賞する除目が行われ、宗盛は遠江守となる。前任者の重盛が伊予守に任じられたことによる後任人事だった。翌永暦元年(1161年)正月には、異母兄・基盛と任国を交代して淡路守となる。2月には同母弟・知盛が武蔵守となるが、これらの国はいずれも清盛の知行国だった。 11月、鳥羽法皇の遺言で家長となっていた美福門院が死去したことで、後白河院政派と二条親政派の対立が本格化する。応保元年(1161年)9月に憲仁親王(後白河上皇の第七皇子、後の高倉天皇)立太子の陰謀が発覚すると、二条天皇は院近臣を解官して後白河上皇の政治介入を停止した。二条天皇は親政確立に意欲を見せ、蔵人頭・中山忠親に対して直接御前に来て奏上するように命じるが、その連絡役を務めたのは宗盛だった。清盛は二条親政を支持する姿勢を示すために、宗盛を二条天皇の側近として送り込んでいたものと推測される。 応保2年(1162年)10月28日、宗盛は左馬頭となる。左馬頭は宮中の軍馬を管理する馬寮の長官であり、平治の乱以前は源義朝が務めていた。軍事貴族にとっては極めて重要な官職であったため、平治の乱以降は重盛が任じられている。この日、重盛は右兵衛督となっているので、これもまた、重盛が左馬頭を辞任したことによる後任人事と見られる。なお、宗盛が辞任した後の左馬頭は重衡であり、馬寮を平氏一門で独占しようとする清盛の強い意思が感じられる。
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