二条親政期とは? わかりやすく解説

二条親政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)

平宗盛」の記事における「二条親政期」の解説

平治元年1159年12月宗盛清盛熊野参詣同行していたが、その途上平治の乱勃発する清盛はすぐに都へ引き返すと、二条天皇内裏から六波羅脱出させることに成功する官軍立場得た清盛藤原信頼源義朝打ち破り、乱は平氏勝利終わった12月27日、乱を鎮圧した勲功賞する除目が行われ、宗盛遠江守となる。前任者重盛伊予守任じられことによる後任人事だった。翌永暦元年1161年正月には、異母兄・基盛と任国交代して淡路守となる。2月には同母弟・知盛武蔵守となるが、これらの国はいずれ清盛知行国だった。 11月鳥羽法皇遺言家長となっていた美福門院死去したことで、後白河院政派二条親政派の対立本格化する。応保元年1161年9月憲仁親王後白河上皇第七皇子、後の高倉天皇立太子陰謀発覚すると、二条天皇院近臣解官して後白河上皇政治介入停止した二条天皇親政確立意欲見せ蔵人頭中山忠親に対して直接御前来て奏上するように命じるが、その連絡役を務めたのは宗盛だった。清盛二条親政支持する姿勢を示すために、宗盛二条天皇側近として送り込んでいたもの推測される応保2年1162年10月28日宗盛左馬頭となる。左馬頭宮中軍馬管理する馬寮長官であり、平治の乱以前源義朝務めていた。軍事貴族にとっては極めて重要な官職であったため、平治の乱以降重盛任じられている。この日、重盛右兵衛督となっているので、これもまた、重盛左馬頭辞任したことによる後任人事と見られる。なお、宗盛辞任した後の左馬頭重衡であり、馬寮平氏一門独占しようとする清盛の強い意思感じられる

※この「二条親政期」の解説は、「平宗盛」の解説の一部です。
「二条親政期」を含む「平宗盛」の記事については、「平宗盛」の概要を参照ください。

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