短期議会と長期議会
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かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。ジョン・ピムが指導する議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調、星室庁・高等宗務官裁判所廃止、トン税・ポンド税・船舶税を議会の承認を経ていないことを根拠に違法と宣言、親政で問題視された機関や税を廃止した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪(私権剥奪)されて処刑されている。 1641年11月に、外交などの国王大権を制限して議会主権を主張する「議会の大諫奏」(大抗議文)が僅差で可決されたことが、事態を決定的なものとした。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派(王党派、騎士党)と議会派(円頂党)に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を審議すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズ1世は1642年1月に議会派の中心人物ピム、ハムデン、アーサー・ヘジルリッジ、デンジル・ホリス、ウィリアム・ストロードら5人の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。5人の逮捕に失敗し身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派は互いに軍備に取り掛かり3月に民兵条例が可決、議会から国王への和平提案(19か条提案)が拒否されると両派は完全に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。この時期、民衆はピューリタンらの発行したパンフレットを通じて一連の政治問題に強い関心を示し、請願や暴動などが起きて民衆の政治活動が活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派がつくられていき、長老派との抗争において独立派を支持した。
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