短期議会と長期議会とは? わかりやすく解説

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短期議会と長期議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)

清教徒革命」の記事における「短期議会と長期議会」の解説

かくして議会召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会といわれるのである。しかし主教戦争遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催必要だった。こうしてやむなく再度議会召集し、「長期議会」が同年11月開会された。ジョン・ピム指導する議会国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対す攻撃強調星室庁高等宗務官裁判所廃止トン税ポンド税・船舶税を議会承認経ていないことを根拠違法宣言親政問題視され機関や税を廃止した一方で治安急速に悪化しアイルランドカトリック同盟による内戦起こった現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派議会内の反対派鎮圧画策していたストラフォード伯トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護権利剥奪私権剥奪)されて処刑されている。 1641年11月に、外交など国王大権制限して議会主権主張する議会の大諫奏」(大抗議文)が僅差可決されたことが、事態決定的なものとした。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員支持されはおらず可決したものの票差は159148とわずか11であった。この抗議文への姿勢違いから議会国王派王党派騎士党)と議会派円頂党)に分裂した続いて12月議会民兵条例審議すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難したこうした状況受けてチャールズ1世1642年1月議会派中心人物ピムハムデンアーサー・ヘジルリッジデンジル・ホリスウィリアム・ストロードら5人の逮捕命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。5人の逮捕失敗し身の危険感じて王がロンドン離れると、国王派議会派互いに軍備取り掛かり3月民兵条例可決議会から国王への和平提案19か条提案)が拒否されると両派は完全に分かれてイングランド全土巻き込む内戦始まった。この時期民衆ピューリタンらの発行したパンフレット通じて一連の政治問題強い関心示し請願暴動などが起きて民衆政治活動活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派つくられていき、長老派との抗争において独立派支持した

※この「短期議会と長期議会」の解説は、「清教徒革命」の解説の一部です。
「短期議会と長期議会」を含む「清教徒革命」の記事については、「清教徒革命」の概要を参照ください。

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