フランスの参戦
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「アメリカ独立戦争におけるフランス」の記事における「フランスの参戦」の解説
イギリス軍はフィラデルフィアを抑えていたが、サラトガの戦いにおける大陸軍の勝利はフランスの愛国者や熱狂的支持者に希望を取り戻させた。イギリス軍のバーゴイン将軍の軍隊が敗れ、フランスは13植民地が勝つかもしれないと想うようになり、植民地に対する表だった援助を行うことを決めた。同盟国のスペインはなお懐疑的であった。ヴェルジェンヌとルイ16世は、アメリカの代表団、フランクリン、ディーンおよびアーサー・リーを通じてアメリカとの同盟に対する関心が上がってくるという仮定に立っていた。イギリスとフランスの間の同盟は1763年に無理矢理押しつけられたものであり、外交危機に突入した。参戦世論は評判が上がりつつあったラファイエットのような人気のある支持者からの恩恵を得ていた。さらに復讐の念が表に出てきた。 1778年2月6日、ヴェルジェンヌとルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。フランスは13植民地が自立した状態にあることを認識し、双方とも勝手に休戦しないこと、および植民地はアメリカにおけるフランスの権益を守ることで合意した。戦闘はアンティル諸島で開始された。 フランスが参戦すると、イギリスはフランス艦隊を自国の海域に止めておくよう画策した。イギリス海峡におけるウェサン島の海戦は決着が着かなかった。2つの艦隊は結果的に引き上げた。イングランドに4万名の部隊を上陸させる作戦が練られたが兵站の問題で捨てられた。ヨーロッパ大陸では、オーストリアとの同盟で守られており、アメリカ独立戦争に参戦しなかったとしても、外交的な支持は得られていた。 ヨーロッパの他の国は武装中立同盟をつくり、参戦を拒んでいた。フランスが単独でイギリス艦隊に対抗するのを見て、1780年にオランダがフランス側に付くことを決めた。スペインは1779年に支持を表明していた。イギリスは困難な立場に立たされた。 フランスの介入は当然ながら海上で始まり、決着の着かないことが多かったが、1780年にロシャンボー伯爵が6,000名の将兵を連れてアメリカに渡ったことで状況が変化した。6,000名のフランス軍は既にサバンナの戦いで3,000名のイギリス軍と対峙していたが、フランス軍の攻撃が功を焦り準備もできていなかったので結果的に失敗した。1781年のチェサピーク湾の海戦では、イギリス艦隊の一部を逃避させ残りを破壊したので、チャールズ・コーンウォリスをヨークタウンで包囲することになった。コーンウォリスは約束されたイギリス軍の援兵を宛てもなく待たされていた。コーンウォリスは陸では大陸軍とフランス軍に、海上はフランス艦隊に抑えられた。同盟フランス軍は10月17日のヨークタウンでパトリオット(愛国派)が決定的な勝利を得るために重要な役割を演じた。もしド・グラス提督のフランス艦隊がいなかったら、この勝利はなかった。無益な抵抗の後に、コーンウォリスは10月19日に正式に降伏した。主要な戦闘は終わり、その後は小競り合いに終始した。しかし、イギリスが正式に休戦するのは1783年のことだった。 フランスとイギリスの艦隊の激突は地球規模に広がった。アンティル諸島では、イギリスとフランスが交互にその支配を行い、1782年のセインツの海戦でイギリスが支配することになった。スペインとフランスの連合艦隊がイギリス艦隊を破り、メノルカ島を1782年2月に抑えた(メノルカ島侵攻)。インドではフランスと同盟したマイソール王国がイギリスの支配を打ち破った。フランスは1783年にサンピエール島・ミクロン島をイギリスから奪取した。しかし、フランスとスペインが共同で行ったジブラルタル包囲戦は失敗し、ジブラルタル半島はイギリスの支配に残った。 アメリカ本土での決定的な勝利のゆえに、フランスはパリでの交渉を有利に進めることができた。
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