フランスの包囲準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「フランスの包囲準備」の解説
1756年のの勝利の後、モンカルムは、ウィリアム・ヘンリー砦でイギリスと交戦する機会を狙っていた。この砦は、カリヨン砦を攻撃する上で、イギリスの拠点たりうるところだっただからだ。モンカルムは、最初のうちは、イギリス軍の配置もわからないままに、ウィリアム・ヘンリー砦に攻撃を仕掛けるのをためらっていた 。その春に、ロンドンの諜報員からもたらされた情報には、イギリスの標的はどうやらルイブールらしいということだった。これはつまり、辺境地帯を守るイギリス軍部隊の水準は低く、ウィリアム・ヘンリー砦で攻撃は可能であるということを暗示していた。この発想は、英仏両軍が定期的に徴兵した兵たちからの情報や、この年1月の「スノーシューの戦い(英語版)」を含む戦闘の脱走兵及び捕虜への尋問による情報を得て、一段と現実味を帯びた。 早くも1756年の12月には、ヌーベルフランス総督のヴォードルイユ侯ピエール・フランソワ・ド・リゴーは、翌年夏の軍事行動に向けたインディアン兵の人選手続きに入っていた。オスウィーゴ砦の攻略で、インディアン兵により流布された噂のため、いくらか尾ひれがついてはいたものの、1757年6月までにはモントリオールに「ペ・ダン・オー(英語版)」(Pays d'en Haut、ヌーベルフランスの中で最も遠くにある地域)から1,000人にも及ぶ兵士を連れて行くことになり、この攻撃が成功する可能性は高まった。別に、セントローレンス川流域に住んでいた800人のインディアン兵が徴集された。
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