フランスの参戦 1778年
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「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」の記事における「フランスの参戦 1778年」の解説
アメリカ独立戦争におけるフランスも参照。 アメリカとその同盟軍、およびイギリス軍の戦列艦数年フランススペインオランダアメリカ同盟軍合計イギリス1778 52 - - 0 52 66 1779 63 58 - 0 121 90 1780 69 48 - 0 117 95 1781 70 54 13 0 137 94 1782 73 54 19 0 146 94 ベンジャミン・フランクリンはフランスが参戦する前に1年以上フランスに滞在していた。サラトガでのイギリス軍降伏に続いて1778年にフランスが参戦した。フランスはそれ以前からアメリカの私掠船や陸軍には密かに援助を行っていた。英仏関係が危機に瀕した3月、イギリスの大使ストーモント卿がパリから呼び戻されたが、どちらの艦隊も準備ができておらず、実際に戦闘が起こったのは7月だった。 フランス政府はイギリスよりはいくぶん準備ができていた。4月13日、デスタン伯爵の指揮で12隻の戦列艦と4隻のフリゲートがトゥーロン港からアメリカに向けて出港した。ジブラルタル海峡を何の抵抗もなく5月16日に通過したが、乗組員の未熟さと、捕獲賞金獲得のために時間を費やすという彼自身のミスのために遅れを生じ、デラウェア川の河口に着いたのは7月8日だった。 フランス政府には3つの目標があった。大陸軍を援助すること、西インド諸島からイギリス軍を排除すること、そしてイギリス海軍の主力をイギリス海峡に引きつけること、である。そのために、第2のより強力な艦隊がドルヴィリュー伯爵ルイ・ジローの指揮下ブレスト港で出港準備を始めた。 イギリス政府はジブラルタル海峡の支配は当面無視することとし、6月9日にジョン・バイロン提督を13隻の戦列艦とともにプリマスから出港させた。アメリカではウィリアム・ハウ将軍の兄リチャード・ハウ提督が待ち受けていた。イギリス海軍はオーガスタス・ケッペル指揮下の西部戦隊と呼ばれる強力部隊を本国で集めた。 ケッペルは6月から予備的な巡航を開始し、7月27日、ついにブレスト沖でドルヴィリュー伯の戦隊と海戦に及んだ(ウェサン島の海戦)。戦力はほぼ等しかったが戦闘は決着が着かず、互いに砲火を交わしながら航過しただけに終わった。これについてイギリス軍首脳の間に政治的な意見の相違から激しい議論が持ち上がり、ケッペルと部下の戦隊指揮官の2件の軍法会議が開かれた。結果は双方とも無罪となったがその後ケッペルは司令官を辞任した。これは海軍の統率には大きな痛手であった。ヨーロッパ海域ではこれ以上の特記すべき事件はなかった。 デスタン艦隊の接近の知らせは、アメリカの海岸部において、イギリス軍の指揮官が1778年6月18日にフィラデルフィアを放棄する動きにつながった。リチャード・ハウは9隻の小型戦列艦からなる彼の部隊を集結させ、6月29日にニュージャージー植民地のサンディフックを出港し、7月11日にデスタンの動きを掴んだ。フランス提督は敢えて海戦を挑もうとはせず、7月22日には大陸軍と協力してロードアイランド植民地のイギリス軍を排除する方向に動いた(ロードアイランドの戦い)。ハウは僅かな増援を受けた後にフランス戦隊を追おうとした。フランス提督はロードアイランドのニューポートに停泊しており、ハウの戦隊に向かおうとしたが嵐のために遭遇は叶わなかった。デスタンは8月21日にボストンに向かった。 ハウは結局バイロンの援助を受けられなかった。装備の十分でなかったバイロン艦隊は7月3日の暴風で中部大西洋上に散り散りになっていたためである。彼の艦隊は9月にようやく目的地に着いた。ハウは7月25日に辞任し、バイロンと交替した。
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