スチュワート・グランプリとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > スチュワート・グランプリの意味・解説 

スチュワート・グランプリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 04:34 UTC 版)

スチュワート
エントリー名 スチュワート・フォード
チーム本拠地 イギリスバッキンガムシャーミルトンキーンズ
主なチーム関係者 ジャッキー・スチュワート
ポール・スチュワート
ニール・レスラー
アラン・ジェンキンス
ゲイリー・アンダーソン
アンディ・ル・フレミング
エグバル・ハミディ
主なドライバー ルーベンス・バリチェロ
ヤン・マグヌッセン
ヨス・フェルスタッペン
ジョニー・ハーバート
以前のチーム名称 ポール・スチュワート・レーシング
撤退後 ジャガー・レーシング
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1997 - 1999
出走回数 49
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数 1
通算獲得ポイント 47
表彰台(3位以内)回数 5
ポールポジション 1
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1997年オーストラリアGP
初勝利 1999年ヨーロッパGP
最後のレース 1999年日本GP
テンプレートを表示

スチュワート・グランプリ (Stewart Grand Prix)は、かつて存在したイギリスのレーシングチームおよびコンストラクター。1997年から1999年までF1世界選手権に参戦した。チーム創設者は、3度のF1王者ジャッキー・スチュワートと息子のポール・スチュワート

沿革

ポール・スチュワート・レーシング

スコットランド出身の名レーサー、ジャッキー・スチュワートの長男ポール・スチュワートは1988年フォーミュラ・フォード2000にデビューした際、ドライバー兼チームオーナーとしてポール・スチュワート・レーシング(Paul Stewart Racing, PSR )を設立[1]ロンドン北西部のミルトンキーンズに拠点を構え、フォーミュラ・ボクスホール・ロータス、イギリスF3選手権国際F3000選手権にも活動を広げた[2]。PSRはイギリスF3で大きな成功を収め、8年間に6名のシリーズチャンピオンを輩出した[3]。ポール自身は国際F3000に参戦し、F1のフットワーク・アロウズでテスト走行も経験したが、1993年一杯でレーサーを引退し、1994年からチーム運営に専念した。

F1参戦計画

ジャッキーはマトラティレルで3度F1チャンピオンを獲得した際、いずれもフォード・コスワース・DFVエンジンを使用しており、現役引退後もフォードのコンサルタントを務めていた。1995年、フォード・コスワースからエンジンをワークス供給を受けていたベネトンルノーエンジンにスイッチしたため、ZETEC-Rエンジンの供給先をザウバーに切り替えたが、成績には満足していなかった[1]。スチュワート親子はフォードの全面的な支援のもとPSRがF1に進出するプロジェクトを提案し、1995年のクリスマス前にフォードから承認された[1]。1996年1月にスチュワート・グランプリの計画が発表され[2]1997年の参戦にむけて準備が進められた。

やがて、チームマネージャーはデビッド・スタッブス、テクニカルマネージャーはアンディ・ミラーであることが判明[4](ポール・スチュワート・レーシングで働いていた人々)、エンジニアは、アラン・ジェンキンス (Technical Director)、Dave Amey(Chief Designer)、Dave Rendall、Richard McAinsh[5](Composite Design)アンディ・ル・フレミング[6][7]、およびエグバル・ハミディ(Head of Aerodynamics)であることが明らかにされた[8]

当時、ほかにも国際F3000からF1に挑戦した新興チームはいたが、ジョーダンの成功を除けば、オニクスパシフィックフォルティなど、みな資金不足と非力なマシンで苦戦を強いられていた。その中でスチュワートはフォード・コスワース・ZETEC-Rエンジンをワークスとして独占供給され、資金面も香港上海銀行 (HSBC) やテキサコ石油マレーシア観光局英語版といった国際的な大口スポンサーを獲得する手際の良さが光っていた。また、同じ1997年にはアラン・プロストリジェを買収してプロスト・グランプリを興しており、元F1王者が指揮する2チームとして比較された。

1997年

SF-1を駆るバリチェロ(1997年カナダGP)

ドライバーはジョーダンからルーベンス・バリチェロをエース待遇で迎い入れ、PSRで1994年のイギリスF3を制覇したヤン・マグヌッセンをセカンドドライバーに起用した。1996年チャンピオンに輝きながら当時在籍していたウィリアムズを解雇されたデイモン・ヒルも興味を示したが、「参戦初年度と言う事でリスクが高い」「古くから続くスチュワート一家との関係を拗らせる事はしたくなかった」と言う理由で見送った[9]

前年3月にアロウズから加入していたアラン・ジェンキンスが1年間をかけて新車SF-1を手がけ[10]、タイヤメーカーは新規参入したブリヂストンを選択した。マシンのカラーは白地にジャッキー・スチュワートのトレードマークでもあるタータンチェックのラインを入れ、エンジンカバーにはFordのロゴ(ブルーオーバル)が大きく描かれた。

第5戦、雨のモナコGPでバリチェロが2位に入り、チーム初ポイントを初表彰台で飾る。予選では度々トップ10内に食い込み、オーストリアGP英語版ルクセンブルクGPではバリチェロ、マグヌッセン共々一時入賞圏内を走るなど健闘を見せたが、新規参戦チームへのF1の壁は厚く、入賞はモナコの1回のみ。初期トラブルが多く、34レース(2台×17戦)中リタイアは26回を数えた。

1998年

2年目の1998年もドライバーはバリチェロとマグヌッセンで変わらず。SF-2ではカーボン製ギアボックスなど攻めの開発姿勢を見せるが、前年ほどのスピードを感じるさせることはなく、低迷の原因になる。シーズン中盤には不振のマグヌッセンを解雇し、フランスGP英語版からヨス・フェルスタッペンを起用した。コンストラクターズランキングは8位と昨年の9位を上回ったが、入賞は第7戦カナダGPのダブル入賞(バリチェロ5位・マグヌッセン6位)を含めて3回のみだった。

1999年

SF-3を駆るハーバート(1999年カナダGP)

1999年はバリチェロと、ザウバーから加入したベテランのジョニー・ハーバートというラインナップで戦った。テクニカルディレクターのアラン・ジェンキンスと空力担当のエグバル・ハミディSF-3の設計を残してチームを去り、前年秋にジョーダンから加入したゲイリー・アンダーソンが開発陣を指揮した。エンジンは軽量コンパクトでありながらハイパワーな新設計のCR-1を搭載する。

マシンパフォーマンスは著しく向上し、フェラーリマクラーレンウィリアムズジョーダンといった強豪と互角に渡り合う健闘を見せる。バリチェロは第2戦ブラジルGPで堂々のトップ走行。第7戦フランスGPでチーム初となるポールポジションを獲得した。第14戦ヨーロッパGPでは予選14位と15位に低迷したが、雨で混乱した展開に乗じて的確なピット戦略を採り、ハーバートがチーム初優勝をもたらし、バリチェロも3位表彰台を獲得した。レース後にはジャッキー・スチュワート代表も表彰台に上がり、ドライバーたちと歓喜のシャンパンファイトを繰り広げた。こうした活躍もあり、1999年はフェラーリ、マクラーレン、ジョーダンに次ぎコンストラクターズ4位と一挙に飛躍した。

チーム売却

モータースポーツ活動の拡大を図るフォードは、アウディと共に、1998年にコスワース エンジニアリング社を分割折半し、そのレーシング部門を100%子会社にしてコスワース・レーシング社を設立、翌1999年6月[11]にはスチュワート・グランプリ社も買収し、2000年より傘下のジャガーブランドを冠したジャガー・レーシングとしてF1にワークス参戦することを発表した[12]。買収金額は130ミリオン(1億3000万)ドル[1]。1999年第4四半期には、トニー・パーネルの設立したPIリサーチ、PIテクノロジー社を買収し、PIグループ社を形成。

チーム創設者のスチュワート家に関しては、ジャッキーは2000年1月のジャガー・R1発表会で勇退を表明し、ポールはチーフ・オペレーティング・オフィサーとしてチームに残ったが、4月に結腸が発見され、治療に専念するため10月にチームを離れた[13]

ジャガーF1チームでは、2001年のシーズン前にはこれらの3つの会社を統括するプレミア・パフォーマンス・ディビジョン (PPD) を設立した[14][15]

その後、ジャガーF1チームは政治的ないさかいに終始した結果、スチュワート時代最後の年の活躍が嘘であったかのように低迷を続け、更にはフォード本社の業績不振に伴い、2004年をもってエナジードリンクメーカーのレッドブルに身売りされた。売却金額は1ドルと云われる。ジャガー改めレッドブル・レーシングはトップチームの一角に成長するが、今日でもPSR時代から活動しているミルトンキーンズに本拠地を置いている。

変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1997年 スチュワート・フォード SF-1 B フォードZETEC-R テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ヤン・マグヌッセン
9 0
1998年 スチュワート・フォード SF-2 B フォードZETEC-R テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ヤン・マグヌッセン
ヨス・フェルスタッペン
8 0
1999年 スチュワート・フォード SF-3 B フォードCR-1 テキサコ ルーベンス・バリチェロ
ジョニー・ハーバート
4 1

F1戦績

シャシー エンジン・タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 得点 順位
1997年 SF-1 Ford
VJ Zetec-R
3.0 V10
B AUS BRA ARG SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA AUT LUX JPN EUR 6 9th
ルーベンス・バリチェロ Ret Ret Ret Ret 2 Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret 13 14 Ret Ret Ret
ヤン・マグヌッセン Ret DNS 10 Ret 7 13 Ret Ret Ret Ret Ret 12 Ret Ret Ret Ret 9
1998年 SF-2 Ford
VJ Zetec-R
3.0 V10
B AUS BRA ARG SMR ESP MON CAN FRA GBR AUT GER HUN BEL ITA LUX JPN 5 8th
ルーベンス・バリチェロ Ret Ret 10 Ret 5 Ret 5 10 Ret Ret Ret Ret Ret 10 11 Ret
ヤン・マグヌッセン Ret 10 Ret Ret 12 Ret 6
ヨス・フェルスタッペン 12 Ret Ret Ret 13 Ret Ret 13 Ret
1999年 SF-3 Ford
CR-1
3.0 V10
B AUS BRA SMR MON ESP CAN FRA GBR AUT GER HUN BEL ITA EUR MAL JPN 36 4th
ルーベンス・バリチェロ 5 Ret 3 9 DSQ Ret 3 8 Ret Ret 5 10 4 3 5 8
ジョニー・ハーバート DNS Ret 10 Ret Ret 5 Ret 12 14 11 11 Ret Ret 1 4 7

脚注

  1. ^ a b c d Andrew Frankel. “Lunch with Paul Stewart”. Motor Sport magazine (2017-07): 136-144. https://www.motorsportmagazine.com/archive/article/june-2017/136/lunch-paul-stewart 2020年5月3日閲覧。. 
  2. ^ a b Stewart Grand Prix”. Grandprix.com. 2020年5月3日閲覧。
  3. ^ ジル・ド・フェラン(1992)、ケルビン・バート(1993)、ヤン・マグヌッセン(1994)、ラルフ・ファーマン(1996)、ジョニー・ケーネ(1997)、マリオ・ハーバーフェルド(1998)
  4. ^ スチュワートが募集を開始”. grandprix.com (1996年2月19日). 2022年9月13日閲覧。
  5. ^ Richard McAinsh”. linkedin.com. 2022年8月15日閲覧。
  6. ^ アンディ・ル・フレミング”. www.grandprix.com. 2022年9月13日閲覧。
  7. ^ Andy le Fleming”. linkedin.com. 2022年8月15日閲覧。
  8. ^ スチュワートがイクザワデザインを買収”. grandprix.com (1996年4月1日). 2022年9月13日閲覧。
  9. ^ 「デイモン・ヒルインタビュー」『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、77頁。 
  10. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル ARROWS 資金不足に加えてデザイナー不在に F1グランプリ特集 Vol.82 129頁 1996年4月16日発行
  11. ^ コンストラクター スチュワートグランプリ”. grandprix.com. 2022年11月15日閲覧。
  12. ^ “Jaguar Back in Formula One”. motorsport.com. (1999年9月15日). https://www.motorsport.com/f1/news/jaguar-back-in-formula-one/33107/ 2020年5月3日閲覧。 
  13. ^ “Stewart announces resignation from Jaguar Racing”. Grandprix.com. (2000年10月30日). https://www.grandprix.com/news/stewart-announces-resignation-from-jaguar-racing.html 2020年5月3日閲覧。 
  14. ^ ニキ・ラウダ会長のPPD,CEO併任”. web.archive.org. cosworth racing. 2001年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月5日閲覧。
  15. ^ “何でもまとめればイイ? フォードが“PPD”を設置”. レスポンス. (2001年3月2日). https://response.jp/article/2001/03/02/7553.html 2020年5月3日閲覧。 

関連項目

外部リンク


スチュワートグランプリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:35 UTC 版)

1997年のF1世界選手権」の記事における「スチュワートグランプリ」の解説

ワールドチャンピオンジャッキー・スチュワートも自らのチーム率いてF1に復帰したドライバールーベンス・バリチェロ前年までマクラーレンテストドライバー務めていたヤン・マグヌッセン起用スチュワート現役時代から繋がりを持つフォード全面的な支援引き出すことに成功し、フォードワークスのスチュワート・グランプリとして参戦資金面でも香港上海銀行(HSBC)やテキサコなど大口のスポンサー得て新設ながらチーム準備整えて参戦果たしている。バリチェロがウェットコンディションとなったモナコGPにて2位入りチーム初入賞と初表彰台がもたらされた。また、バリチェロカナダGP予選3番手、アルゼンチンGPオーストリアGPではともに予選5番手と、予選で度々上位顔を出したものの、結局決勝での結果には結びつけることはできなかった。この年のマシンスチュワート・SF-1信頼性著しく低いという課題があり、マグヌッセン完走5回、バリチェロ至って完走わずか3回のみというシーズンとなっている。

※この「スチュワートグランプリ」の解説は、「1997年のF1世界選手権」の解説の一部です。
「スチュワートグランプリ」を含む「1997年のF1世界選手権」の記事については、「1997年のF1世界選手権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スチュワート・グランプリ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スチュワート・グランプリ」の関連用語

スチュワート・グランプリのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スチュワート・グランプリのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのスチュワート・グランプリ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの1997年のF1世界選手権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS