ホンダが受けた痛手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:06 UTC 版)
ホンダの1983年決算は、売上高が前年比13%増の1兆7500億円、経常利益が506億円と過去最高の数字を記録。一見勝者の利を享受したように見えるが、実態はアメリカホンダからの配当収入によるものだった。国際的な資金調達を受けるために、1980年にスタンダード&プアーズから受けたコマーシャルペーパー発行体格付けA-1を維持する必要に迫られ、減益は何としても避けなければならなかった。1982年だけでリベートなどにつぎ込んだ資金は200億円にも上っており、過剰在庫処理と減産体制への移行も余儀なくされた。 戦争終結の直前、ホンダは戦線を中型二輪車に拡大する策を準備していたが、最新鋭の2車種は発売目前に小池の宣言を受けてお蔵入りとなった。販売の最前線で指揮を執った吉沢は「宴(HY戦争)は終わった。今どんなに美味しいご馳走(新製品)を出しても、食べる者はいない」としたほか、1982年に副社長から会長に就任していた杉浦秀男も「ホンダの情報分析がもっと緻密ならば、ヤマハの暴走を食い止められた」と反省の言葉を語った。
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