1984年〜1987年 ホンダとの提携
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「ウィリアムズF1」の記事における「1984年〜1987年 ホンダとの提携」の解説
1983年は旧シャーシ熟成型となるFW08Cで参戦し、勝利はロズベルグによるモナコGPでの1勝のみに終わるが、同年にエンジンサプライヤーとして15年ぶりにF1活動を再開したホンダと交渉を開始し、6月には契約締結に成功。以後はV6ターボエンジンを搭載する新シャーシの開発に注力。1983年の最終戦にてFW09をデビューさせる。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGP(ダラス)で酷暑のレースをロスベルグが制し、ホンダエンジンとしては17年ぶりとなるF1での勝利をものにした。この1984年より新たにウィリアムズのスポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は、80年代を通して長らく円形のロゴをウィリアムズのフロントノーズに載せ続けることとなった。 1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ジャック・ラフィーのリジェ移籍が決まった為、ルノーのデレック・ワーウィックに獲得オファーをするも、ルノー残留を望んだワーウィックに断られたため、ロータスでピーター・ウォーと不仲となり放出されたナイジェル・マンセルを獲得しロズベルグとのコンビとなった。FW10はホンダの新設計エンジンを搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPがF1初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。ホンダ・ターボの初期開発を支えたロズベルグはマクラーレンへの移籍が決まり、4年在籍したウィリアムズを去った。 1986年、2度のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。この時点でマンセルはまだ前年の1勝のみであり、ピケは完全No.1待遇でウィリアムズと契約した。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた。それでも車椅子姿でチームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含めウィリアムズ側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやその条件としてピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。ピケはこの2年後に受けたインタビューにて「契約から半年後にはチームとのNo.1待遇の約束は反故にされ状況が難しくなった。マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランク(・ウィリアムズ)は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブ・サスのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてことを承服できるわけがない。」とこの年の内情を述べている。 こうしたチーム内の混乱を突かれ、最終戦オーストラリアGPではマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンをさらわれてしまった。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームとされた2人ともドライバーズ・チャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力の分散を真っ先に挙げた。 1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを投入し、イタリアGPで勝利している。しかしピケはマンセルを優遇するチームへの不満が募り、このシーズン限りでロータスに移籍。さらにホンダはマンセルに変わって日本人ドライバーの起用を要求しウィリアムズ側がそれを拒否するなどホンダとの関係も急速に悪化し、ホンダはエンジン供給をマクラーレンとロータスの2チームに変更してしウィリアムズへのエンジン供給を打ち切ってしまう。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。
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