鈴鹿サーキット設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:25 UTC 版)
「ジョン・フーゲンホルツ」の記事における「鈴鹿サーキット設計」の解説
本田技研工業(ホンダ)は三重県鈴鹿市にレース用サーキットを建設することを計画し、1960年12月に建設責任者の塩崎定夫、ホンダのロードレース世界選手権チームのチームマネージャーである飯田佳孝らをヨーロッパのサーキット視察に出張させた。その際、サーキット設計者を探していた一行は、飯田が以前からヨーロッパ転戦で世話になっていたオランダのホンダディーラーであるモーカルクを介してフーゲンホルツに接触する。日本初の全面舗装の常設サーキットの設計と監修を依頼されたフーゲンホルツはその要請を快諾し、1961年の年明け早々に来日し、サーキット設計に着手する。 フーゲンホルツはサーキット設計にあたって、前年に塩崎が作成した案を下敷きに荒唐無稽な箇所は破棄し、「8の字レイアウト」という基本コンセプトを明確に定め、1~2コーナーの形状、S字区間、ダンロップコーナー、デグナー、スプーン、130Rといった今日の鈴鹿サーキットを特徴づける各区間はフーゲンホルツ参加後に形を現していった。フーゲンホルツは鈴鹿サーキット建設予定地にほど近い四日市市に滞在し、コースレイアウトの設計を手掛けるだけではなく、サーキット運営の第一人者として、建物などの付帯設備の配置、観客の動線設計、監視ポストの位置などを示し、サーキット完成後を見据えたノウハウをサーキット側に提供した。こうして、鈴鹿サーキットは翌1962年に完成した。 その後、鈴鹿サーキットは、最終コーナー手前のシケインの設置(1982年)、デグナーカーブの複合コーナー化(1987年)、130Rの複合コーナー化(2003年)などの改修はされているが、コースレイアウトそのものは2017年現在でもフーゲンホルツが設計した1962年当時のものから大きくは変わっていない。 その後のホンダとの関係 鈴鹿サーキット建設にあたって生まれたホンダとの縁から、フーゲンホルツはホンダがF1に初めて参戦(ホンダF1・第1期)するにあたって、いくつかの協力をしている。ホンダは当初はエンジンサプライヤーとして参入することを計画していたため、ホンダが研究用に必要としていたクーパーシャシーの手配や、供給先の候補のひとつとなったジャック・ブラバムへの紹介はいずれもフーゲンホルツが仲介した。ホンダが実戦用に製作した最初の車両であるRA271のシェイクダウンは1964年7月にザントフォールト・サーキットで行われたが、これも支配人であるフーゲンホルツとホンダの関係によって実現している。 モータースポーツ以外では、ベルト式無段階変速機の可能性を探っていた本田宗一郎が、オランダ訪問の際にフーゲンホルツを介してDAFを見学するなどしている。
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