ジョン・フーゲンホルツ
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ジョン・フーゲンホルツ(Johannes Bernhardus Theodorus "Hans" Hugenholtz, 1914年10月31日 - 1995年3月25日)は、オランダ出身のレースサーキット設計者、サーキット運営者である。サーキット設計者としては、鈴鹿サーキット(1962年完成)、ゾルダー・サーキット(1963年)の設計者として特に知られる。サーキットの運営者としては、オランダのザントフォールト・サーキットの支配人を長く務め、その間、サーキット連盟(AICP)を創設し、サーキット間の連携で主導的な役割を担ったほか、キャッチフェンスを考案するなど、サーキットの安全性向上にも大きな貢献を果たした[W 5]。
注釈
- ^ 1936年設立。
- ^ 1956年設立。旧車が次々に廃車となっていっていた当時の情勢から、旧車をアンティークとして保存するための会として設立された。
- ^ 後の国際パーマネントサーキット連盟(Circuits International/Association Internationale des Circuits Permanents, A.I.C.P.)。サーキットの運営ノウハウをサーキット間で共有することを目的にしている[W 7]。
- ^ フーゲンホルツとホンダの最初の接点について、塩崎定夫は「オランダの販売店で相談した」ことでフーゲンホルツの存在を知ったと語っているが[2]、飯田佳孝はこの訪問の以前からフーゲンホルツと面識があったと述べている[3]。飯田が率いていたホンダのロードレースチームでGPライダーだった高橋国光は、1960年の時点でホンダの二輪GPチームがアムステルダムに拠点を置いてザントフォールトでテストを重ねていたということを述べている[4]。
- ^ 鈴鹿サーキット以前には多摩川スピードウェイ(1936年開業)や浅間高原自動車テストコース(1957年完成)もレース用コースとして存在はしていたが、それらは未舗装(ダートトラック)だった。
- ^ 立体交差を設けるというアイデアは塩崎の初期案の時点で存在したが、初期案では3か所あった立体交差の内の1か所が残されたのは「8の字にすればタイヤの両サイドが削れるようになる」というフーゲンホルツの設計提案に基づく[5][W 13]。当時、同一コースレイアウトの中に立体交差を持つサーキットはモンツァ・サーキット(オーバル結合時)くらいしか例がなく、かつ「8の字」にして左右コーナーの均等化を図るというのは類例のないコンセプトだった(モンツァ以外では1950年代までに高速道路を利用した市街地コースで立体交差の採用例がいくつか存在するがそれらはいずれも短命に終わっており、8の字でもない)[W 14]。
- ^ ただし、他の各コーナーもランオフエリアの拡張などのために数メートル程度の移動はしているため、「50年間変わらないのは2本のストレートだけ」との関係者による評もある[7][8]。
- ^ クーパー・T53。T53自体は元々2.5リッター規定の1960年用に設計された車両だが、ホンダが入手したのは1.5リッター規定に合わせた1961年の車両とされている[W 17](ホンダはこの車両を1.5リッターの車両としているが[W 18][W 19]、ホンダF1の初代監督である中村良夫はこの車両は2.5リッターの旧規定車で参考にはならなかったとしており[10]、どちらが正しいかは判然としない)。現在はホンダコレクションホール所蔵[W 19]。
- ^ 当時はブラバムを設立したばかりだった。1964年初めにホンダ初のF1車両(試作車)であるRA270の実走テストも担当[W 20]。
- ^ いずれもフーゲンホルツJr.の証言に基づく[6][9]。中村良夫は、クーパー・T53はボブ・マッキンタイヤ(ホンダ2輪のGPライダーで1962年8月没)が4輪レース進出の練習用に手に入れた車両を、マッキンタイヤ死後の「1961年暮れ」に「未亡人から」購入したと述懐している[10]。また、ジャック・ブラバムとの出会いは1962年春の東京で、ブラバムも出演していた映画『野郎ぶっ飛ばせ』の日本公開後の時期だった、と中村は述懐している[11]。フーゲンホルツJr.の証言と中村の証言は必ずしも矛盾しないが、留意を要する。
- ^ ホッケンハイムは元々は反時計回りのサーキットだったが、最終コーナーやスタート/フィニッシュラインを含む南西セクションがアウトバーンのA6線延伸により使用不可能となったため、ピットなどの付帯設備も新築が必要になった。
- ^ 1960年代までドイツグランプリはほぼ全てニュルブルクリンクで開催されていたが、F1の高速化に伴い安全性に懸念が持たれるようになり[W 22]、1970年にホッケンハイムで一度だけ代替開催された後、1976年ドイツグランプリ(ニュルブルクリンク)のニキ・ラウダの事故により、1977年以降はホッケンハイムが主な開催地となった。
- ^ フーゲンホルツをザントフォールト・サーキットの「設計者」とする誤解は日本語圏に限ったことではなく、英語版ウィキペディアのフーゲンホルツの記事(en:John Hugenholtz)も同じ注記を設けている。サミー・デイヴィスは1927年のル・マン24時間レースの優勝者で、ベントレー・ボーイズの一人。
- ^ 「ザイスト近郊の土地」にサーキットを建設すべく資金を調達したが、計画は頓挫したため、フーゲンホルツはザントフォールト・サーキットの建設計画(1948年に完成)に参加することになる[W 28]。
- ^ 自動車関係では、2004年から2012年にかけてスパイカー・カーズなどの持ち株会社であるSpyker N.V.の経営陣に名を連ね、2010年から2012年にかけて会長を務めた[W 31]。
出典
- ^ a b F1グランプリコース(中村1991)、p.173
- ^ RacingOn Vol.461 鈴鹿サーキット、「ゼロから鈴鹿サーキットを作り上げた塩崎定夫に訊く──「まさか50年後にも褒めてもらえるなんて」」(大串信) pp.12–17
- ^ オートスポーツ 1994年6/1号(No.655)、「鈴鹿、モータースポーツの原点」 - 「鈴鹿サーキットの誕生エピソード」(飯田佳孝インタビュー) pp.10–13
- ^ [鈴鹿サーキット開場50周年記念]アニバーサリーデー・オフィシャルブック、「私と鈴鹿の50年(1) 高橋国光」 pp.72–73
- ^ 情熱の最前線 特別座談会(ホンダ1994)、pp.24-25
- ^ a b c d e RacingOn Vol.462 シルエットフォーミュラ、「Racing On No.461中記事への見解」(ジョン・フーゲンホルツJr.) p.146
- ^ RacingOn Vol.448 ホンダF1 第2期の曙光、「半世紀を生きる、鈴鹿サーキットの物語」 pp.88–93
- ^ [鈴鹿サーキット開場50周年記念]アニバーサリーデー・オフィシャルブック、「鈴鹿変遷史1962>>2012 進化を続けた50年」 pp.204–209
- ^ a b c d e F1モデリング Vol.64、「ホンダとフーゲンホルツ~知られざるスーパーマン~」(中島剛彦) pp.30–34
- ^ a b グランプリレース(中村1979)、p.80
- ^ グランプリ 2(中村1970)、p.104
- ^ オートスポーツ 1968年7月号(No.37)、「どこへゆく“レースの安全性”」(J・B・フーゲンホルツ) pp.59–63
- ^ a b オートスポーツ 1968年8月号(No.38)、「新設サーキットをめぐる噂と真相」 pp.71–64
- ^ 川本信彦・本田技術研究所副社長(当時。後の本田技研工業第4代社長). “フーゲンホルツへの書簡(1984年)” (英語). 2017年11月18日閲覧。
- ^ 山田格・鈴鹿サーキット総支配人(当時). “フーゲンホルツJr.への書簡(1998年)” (英語). 2017年11月18日閲覧。
- ^ a b “Zolder” (英語). racingcircuits.info 2017年11月18日閲覧。
- ^ a b Circuito del Jarama official website. “History Of The Circuit” (英語). 2017年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月27日閲覧。
- ^ a b ジャッキー・スチュワート. “Circuit Safety by Jackie Stewart” (英語). Autocourse 1968. p. 56-59. 2017年11月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g hugenholtz.net. “Biography in family history” (オランダ語). p. 32. 2017年11月18日閲覧。
- ^ Circuits International (AICP) official website. “Activities” (英語). 2017年11月18日閲覧。
- ^ Circuits International (AICP) official website. “History” (英語). 2017年11月18日閲覧。
- ^ a b c d “第2話 1962 スズカの道は、世界に通ず”. 「レーシング」の源流. 本田技研工業 (1998年9月1日). 2000年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月31日閲覧。
- ^ 大久保力. “マイ・ワンダフル・サーキットII 第5回「ヨーロッパを見て来い!」”. Stinger. 2017年11月18日閲覧。
- ^ “The Origin 2 第9章:「そして、男達は海を渡った」~Honda マン島初挑戦当時の険しい道のり~”. 本田技研工業. 2017年11月18日閲覧。
- ^ “The Origin 2 第10章:日本に「モータースポーツ」が走り始めた日~鈴鹿サーキットの誕生~”. 本田技研工業. 2017年11月18日閲覧。
- ^ 熊倉重春. “鈴鹿サーキット小史(前編)”. GAZOO (トヨタ自動車). 2017年11月18日閲覧。
- ^ Paul Fearnley (2014年10月2日). “Crossover circuits” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年12月31日閲覧。
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- ^ 大久保力. “マイ・ワンダフル・サーキットII 第6回「鈴鹿のルーツはマン島だった!!」”. Stinger. 2017年11月18日閲覧。
- ^ 丸野富士也. “Honda F1の原点とヨーロッパ紀行 12.F1ドライバーのテクニック”. 本田技研工業. 2023年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月27日閲覧。
- ^ “F1参戦 - 第1期 - / 1964”. 本田技研工業. 2021年11月6日閲覧。
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- ^ 丸野富士也. “Honda F1の原点とヨーロッパ紀行 11.モナコのピット”. 本田技研工業. 2017年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月27日閲覧。
- ^ 丸野富士也. “Honda F1の原点とヨーロッパ紀行 21.ザンドフルト”. 本田技研工業. 2022年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月27日閲覧。
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- ^ “Hockenheimring” (英語). racingcircuits.info. オリジナルの2020年11月12日時点におけるアーカイブ。 2023年5月27日閲覧。
- ^ “Encyclopedia CIRCUITS: ZANDVOORT” (英語). grandprix.com 2017年11月18日閲覧。
- ^ Mattijs Diepraam (Summer 2001). “The quintessential race track in the dunes” (英語). forix.autosport.com. 2017年11月18日閲覧。
- ^ “Motor Sport archive” (英語). Motor Sport Magazine. 2017年11月23日閲覧。
- ^ John Hugenholtz (1945年9月). “A rare opportunity” (英語). Motor Sport Magazine. p. 20. 2017年11月23日閲覧。
- ^ Darren Galpin. “Zeist” (英語). GEL Internet Motorsport Directory. 2017年11月24日閲覧。
- ^ John Hugenholtz (1939年6月). “FROM HOLLAND” (英語). Motor Sport Magazine. p. 12. 2017年11月23日閲覧。
- ^ “Namen van de bochten op het circuit van Zandvoort(ザントフォールト・サーキットのコーナー名)” (オランダ語). orangehat.nl 2017年11月18日閲覧。
- ^ “Spyker N.V. ANNUAL REPORT 2012” (英語). Spyker N.V. (2013年4月29日). 2017年11月18日閲覧。
- 1 ジョン・フーゲンホルツとは
- 2 ジョン・フーゲンホルツの概要
- 3 人物・エピソード
- 4 脚注
- ジョン・フーゲンホルツのページへのリンク