高橋国光(日本)
1958年に浅間火山レースで2輪デビュー。61年にはホンダの契約ライダーとしてワールドGPに参戦し、ドイツで日本人初の優勝を飾っている。62年のマン島でクラッシュし瀕死の重傷を負い、2輪から撤退。65年に日産と契約し4輪デビュー。速かったがビッグレースでは不運続きで無冠の帝王と呼ばれる。73年から富士GCに参戦を始め、やがて全日本F2にも進出。77年には鈴鹿F2000チャンピオン。75年と81年には富士GCでシリーズ2位。85年からはポルシェを駆り、3年連続で全日本耐久チャンピオンに。F1は77年の富士にティレルでスポット参戦、9位完走を果たしている。90年代終盤まで現役トップドライバーとして活躍したあとチームオーナーなどを務めている。
高橋国光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 16:59 UTC 版)
高橋 国光(高橋 國光[1]、たかはし くにみつ、1940年1月29日 - 2022年3月16日[2])は、日本の元レーシングドライバー、オートバイ評論家。東京府北多摩郡小金井町(現・東京都小金井市)出身[3]。血液型:B型。愛称は国さん。
- ^ a b 『官報』第719号11頁 令和4年4月20日号
- ^ a b “【訃報】 高橋国光さんが死去…日本のモータースポーツの第一人者”. F1-Gate.com (2022年3月16日). 2022年3月16日閲覧。
- ^ 高橋国光氏の実績 本田技研工業 2022年3月22日
- ^ 作中にて同年に行われた「1971年日本グランプリ TSレース」の模様が収められたフィルム映像が流用された。同局で同レースの放送が行われた為。
- ^ ADVAN、待ってました!伝統のブランドがトップフォーミュラに Toyota GazooRacing 2016年2月16日
- ^ 自ら「TEAM ADVAN」を編成して参戦 YOKOHAMA モータースポーツ活動、60年の軌跡 2017年9月13日
- ^ 1985年、鈴鹿でチャンピオンを決めた高橋国光/高橋健二組 オートスポーツ 2022年4月1日
- ^ “高橋国光氏が文部科学省より令和元年度スポーツ功労者顕彰を受ける”. JAF MOTORSPORTS. 2021年4月27日閲覧。
- ^ “高橋国光氏が文部科学省より「スポーツ功労者」として顕彰される”. 本田技研工業. 2021年4月27日閲覧。
- ^ 【訃報】日本人初の世界GP優勝。二輪、四輪で活躍したレジェンド亡くなる。高橋国光さん逝去 - autosport web 2022年3月16日
- ^ "【訃報】日本モータースポーツ界の伝説、高橋国光さん亡くなる。享年82". motorsports.com. Motorsport Network. 16 March 2022. 2022年3月16日閲覧。
- ^ “故高橋国光氏 旭日小綬章を受章”. モータースポーツジャパン. 2022年4月25日閲覧。
- ^ "高橋国光さんご逝去 合掌". J SPORTS. ジェイ・スポーツ. 23 March 2022. 2022年4月25日閲覧。
- ^ "「ありがとう、国さん」、レジェンドレーサー・高橋国光さん追悼展始まる…ホンダ本社". 読売新聞オンライン. 読売新聞. 19 March 2022. 2022年3月22日閲覧。
- ^ 日産グローバル本社ギャラリーで高橋国光さんを偲ぶ追悼特別展示を4月14日まで実施 オートスポーツweb 2022年3月24日
- ^ SGT第2戦で高橋国光さんの追悼セレモニーを実施。GTA代表「みなさんと一緒に感謝の気持ちを伝えたい」オートスポーツ 2022年5月2日
- ^ スポーツ歴史の検証 最速へ踏み込むアクセル 星野一義 プロスポーツのカリスマたち 笹川スポーツ財団
- ^ オートスポーツNO.789 2000年2/3号 62頁「my best race 第3回・高橋国光」より
高橋国光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:20 UTC 版)
シーズン最終戦の日本グランプリで、ペペ亡きあとのSVEチームのセカンドドライバーとしてスポット参戦する設定となっている。
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