大洋巡洋艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:07 UTC 版)
「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「大洋巡洋艦」の解説
クリミア戦争での敗北後、海軍の再建と外洋海軍の建設を目指していたロシア帝国海軍は19世紀後半、大洋における良好な巡洋性能の確保を最大の目的とした艦船、すなわち「大洋巡洋艦」(たいようじゅんようかん; «океанскій крейсеръ»)の整備を進めた。当時、世界的に見ても高い航洋性と攻撃力・防御力を両立した艦は少なく、前者を確保するために後者を犠牲にするか、後者を獲得したがために航洋性の劣る事実上の沿岸防衛艦となるのが通例であった。こうした中、ロシア帝国海軍でも当初は大洋巡洋艦については防禦装甲システムの装備を絶対条件とは考えておらず、それよりもまず十分な航続距離と航洋性を確保するのを優先して考えていた。従って、可能性としては非装甲の大洋巡洋艦というのも存在しておかしくはなかった。 しかし、ロシア帝国海軍が実際に配備した大洋巡洋艦の大半は装甲システムを有していた。当時まだそうした名称は存在しなかったが、それらは後世でいうところの「装甲巡洋艦」であった。それらは当時の分類法において装甲フリゲートに数えられたが、この装甲フリゲートという艦種の中には沿岸防衛用の艦と外洋巡航用の艦とが混在していた。今日、装甲フリゲートの中で装甲巡洋艦に数えられるのは後者だけであり、それらは設計概念上の名称でいう大型巡洋艦であった。大洋巡洋艦の整備は1870年代に本格化し、19世紀末の海軍予算のほとんどが大洋巡洋艦の建造費に当てられた。その結果、20世紀初めまでに他艦種からの改修艦を含め 12 隻が配備された。それらは本国から交替で極東方面へ派遣され、本国バルト海から太平洋までの往復には長大な距離の航海をこなしていた。それらのうち、旧式化して事実上戦力外となっていた初期の 4 隻を除く 8 隻中 5 隻が日露戦争で失われ、ロシア帝国海軍がひたすら大洋進出を目指した時代も終焉した。それ以降、ロシア帝国海軍が巡洋戦力に重点的に力を注ぐことはなかった。 そのような文脈の中で、「パーミャチ・アゾーヴァ」は帆船時代の分類基準による「フリゲート」として設計された最末期の大洋巡洋艦であった。海軍元帥(ロシア語版)アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(ロシア語版)大公の署名による1886年6月27日付けの海軍管轄官庁第83号指令では半装甲フリゲート(はんそうこうフリゲート; полуброненосный фрегатъ)と呼ばれたが、ロシア帝国海軍においてこの名称は、艦が閉鎖砲座甲板を持たず、喫水線部分にだけ防禦装甲を持っていることを意味している。それにも拘らず、しばしば装甲フリゲート(そうこうフリゲート; броненосный фрегатъ)とも呼ばれる。乗務士官らによって作成された1890年発行の秘密文書『フリゲート「パーミャチ・アゾーヴァ」に関する簡易資料』では、フリゲートと記載している。やがてフリゲートという艦種が廃止されかわって 1 等巡洋艦に類別が変更されると広く一般にも巡洋艦(じゅんようかん; крейсеръ)と呼ばれるようになり、装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん; броненосный крейсеръ)という名称が一般的になるとその名称と呼ばれるようになった。海軍に装甲巡洋艦という分類が正式に制定されたのは1907年9月27日のことであり、このときには「パーミャチ・アゾーヴァ」は練習船になっているため、正式分類で装甲巡洋艦と呼ばれたことはない。 「パーミャチ・アゾーヴァ」は、最初の大洋巡洋艦である「ゲネラール=アドミラール」級装甲巡洋艦に連なる直系の末尾を飾る艦であり、艦隊主力艦として整備された最後の巡洋艦であった。次のシリーズは同じ大洋巡洋艦であってももっぱら通商破壊艦として整備された「リューリク」=「グロモボーイ」クラスであり、「パーミャチ・アゾーヴァ」はこのシリーズへの橋渡し役を務めた。そして、このシリーズが19世紀のロシア帝国海軍巡洋艦整備の時代の集大成となった。「パーミャチ・アゾーヴァ」は戦史的にはほかの大洋巡洋艦ほど目立った活躍は残さなかったが、政治史的には19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア帝国の極東政策で中心的な役割を担い、技術史的には次の世代の巡洋艦の基礎を築くという役目を全うした。
※この「大洋巡洋艦」の解説は、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の解説の一部です。
「大洋巡洋艦」を含む「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事については、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 大洋巡洋艦のページへのリンク