装甲巡洋艦の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/22 07:29 UTC 版)
「ゲネラール=アドミラール級装甲巡洋艦」の記事における「装甲巡洋艦の誕生」の解説
すでに海軍省は1867年中に、装甲艦船の活動力を強化して装甲巡洋艦の典型を作り出すことの重要性を指摘していた。海軍省幹部は、イギリスの巡洋艦隊と戦うためにロシアの巡洋艦は喫水線部を装甲で覆わなければならないと考えた。 N・V・コプィートフ 2 等佐官は、幅約 2 m の装甲帯(英語版)を装備する巡洋艦の設計を作成した。 その設計によれば、舷側下部は全長にわたって厚み 127 mm の鉄板で覆われ、上部は厚み 152 mm の鉄板で覆われることになっていた。船体前後端に行くに従い装甲帯は薄くなり、下部で 102 mm、上部で 102 ないし 127 mm となった。装甲重量は、全部で 406 t になった。噴水推進装置を採用するために、衝角は廃止された。この噴水推進装置の設計は、海軍元帥の承認の下で行われた。船体水中部分には長方形の空洞が設けられており、これが船首から船尾へ至る水路となっていた。船首部分の入り口から水を取り入れることができ、これを船体中央部に装備されたアルキメディアン・スクリュー装置によって加速することで推力を得る構造になっていた。 1868年には A・A・ポポーフが帰国し、木造フリゲート「ゲネラール=アドミラール(英語版)」の改修設計を提出した。しかし、この大型フリゲートの腐敗箇所を修繕し、修理するのは費用対効果の観点からいってあまりに高くついた。この工事を行う代わりに、船体水上部分のすべてを鉄製に作り変え、厚み 203 mm の装甲帯を貼り付ける案も提出された。しかし、この案でも機関換装が必要となるため、必要経費は 96 万ルーブリに上った。結局、既存艦の再利用は断念され、同じ艦名で金属製船体を持った艦を新造することに決定した。 ポポーフ海軍少将はかねてより自立単独行動のできる装甲大洋巡洋艦の構想を抱いており、確信的な大洋巡洋艦建造推進派であった。彼は海軍省における自身の権威と海軍元帥の支援を利用して、ロシアの新しい巡洋艦の選択において著しい影響力を発揮した。1860年代にはロシア帝国の海外権益は巡洋艦隊によって守られていたが、1870年代に入るとその屋台骨であった木造巡洋艦はまったく旧式化していた。修理して使用に耐えるのは、フリゲート 1 隻といくつかのましなコルベットおよびクリッパーだけであった。こうした状況に鑑み、巡洋艦戦の能力を保持するため、海軍省は1869年に喫水線部に装甲帯を持つ高速鉄製コルベット 2 隻の建造を許可した。
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