再び、太平洋艦隊での勤務とは? わかりやすく解説

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再び、太平洋艦隊での勤務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:07 UTC 版)

パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「再び、太平洋艦隊での勤務」の解説

1894年11月9日には、Z・P・ロジェーストヴェンスキイ 1 等佐官指揮下の 1 等巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」がピレウス到着し「パーミャチ・アゾーヴァ」はこれに合流した同年11月22日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」G・P・チュフニーン 1 等佐官指揮の下、艦隊とともにピレウスを後にして新たな駐留地となる極東へ向かった航海には、バルト海から回航してきた建造されたばかり水雷巡洋艦「フサードニク」と「ガイダマーク」が同伴した出港急がれたため、船の祝日である11月26日の聖ユーリイゲオルギイ)の日も海上航行中祝われることになった旅路「パーミャチ・アゾーヴァ」は 2 隻の水雷巡洋艦代わる代わる曳航した。これらの艦は小型であったため、洋上ちょっとしたであってもすぐに航行困難になったのである。しかし、チュフニーン 1 等佐官適切な指揮お蔭で、これらの小さな巡洋艦はどうにか沈むことなく航海続けることができた。 航海途上艦隊香港立ち寄った。そして、そこではイギリスによって港湾深く掘り下げられているのが確認された。これにより、イギリス香港喫水の深い大型艦配備することが可能になっていたのである。このことは、イギリス海軍極東へ本格的な戦艦配備する準備整えたということ意味していた。1895年2月6日「パーミャチ・アゾーヴァ」長崎到着し艦上には太平洋艦隊司令官 S・P・トィルトフ海軍中将将官旗が翻った。このときを以って「パーミャチ・アゾーヴァ」太平洋艦隊旗艦となった4月6日には、地中海艦隊旗艦である艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世」が、司令官 S・O・マカーロフ海軍中将将官旗を掲げて長崎太平洋艦隊合流した4月7日には、軍事行動可能性通達された。 その間日本政府指示した規則により、艦隊日本近在の諸港に分散して逗留しなければならなかった。長崎には、巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」と「ヴラジーミル・モノマフ」が停泊したそのほか神戸には 1 等巡洋艦ナヒーモフ提督」と「ルィーンダ」、それに砲艦コレーエツ」、横浜には 1 等巡洋艦コルニーロフ提督」、芝罘には 2 等巡洋艦「ラズボーイニク」、天津には砲艦「シヴーチ」、済物浦には 2 等巡洋艦「ザビヤーカ」、上海には 2 等巡洋艦「クレーイセル」、砲艦「マンジュール」と「グレミャーシチイ」、水雷艇「スヴェーアボルク」、香港には目的地まで到達できなかった砲艦「オトヴァージュヌイ」が水雷艇「ボールゴ」と「レーヴェリ」を連れて停泊した一方砲艦「ボーブル」と水雷巡洋艦「フサードニク」および「ガイダマーク」は、ポルド=ガミリトン港外投錨地において軍事演習行った1895年4月11日宣告され三国干渉により、4月末には太平洋艦隊の諸艦は清の芝罘港に集結し始めた。まず、4月14日には「ヴラジーミル・モノマフ」が芝罘入港し「パーミャチ・アゾーヴァ」は「インペラートル・ニコライ1世」、「フサードニク」、「ガイダマーク」、「スヴェーアボルク」とともに4月23日現地入りした。近在諸港のロシア艦船加えてウラジオストクからは水雷艇「ウスーリ」と「スンガリー」が増派された。太平洋艦隊地中海艦隊合流し太平洋地中海連合艦隊司令官参謀長には S・P・トィルトフ海軍中将任官した日本側から軍事行動開始可能性通知があったため、太平洋地中海連合艦隊直ち日本艦対撃滅念頭に置いた戦闘準備を行うことになった。S・O・マカーロフ提督進言の下、S・P・トィルトフ提督中心となって芝罘への道すがら艦隊戦術練り戦陣組み立て船内点検し敵の衝角攻撃備えて厳重な警戒態勢取った艦船にはまた、モールス信号機が搭載された。また、マカーロフ提督は各艦の艦載水雷艇戦闘時には着水して敵艦隊に攻撃仕掛けるよう命じた停泊地点沖には、警備舟艇配置された。同時に艦隊にとって革命的な指令となる、艦船塗色変更が命ぜられた。艦船平時塗色から、速やかに保護色の「明灰色」に塗り替えられることとされた。艦長たちは、より効果的な塗色考えた巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」は、チュフニーン艦長の命によって現地色調合わせて薔薇色がかった灰色塗り替えたその結果夜間のみならず夕暮れ明け方においても艦は海の色溶け込むようになったそのほか、マカーロフ提督は「濡れた帆布」色の「ウラジーミル・モノマフ」や黒の上白く塗られた「オトヴァージュヌイ」、また「インペラートル・ニコライ1世」の塗色が特に優れている評価している。 その後連合艦隊はマカーロフ提督指揮の下、演習行ったまた、インペラートル・ニコライ1世」では、各指揮官艦長らを集めた大きな会合2 度開かれた。特に、これまでのようにいちいちバルト海から艦隊行き来させるのはあまりに不都合であり、ウラジオストク設備強化して艦隊常駐能力持たせることが必要であると話し合われた。また、艦船への防網の設置不可欠であると指摘された。また、太平洋におけるロシア艦隊将来的主力艦についても「インペラートル・ニコライ1世」での会合討議された。多くの案が示される中で、将来的実際に配備されたのはチュフニーン 1 等佐官提案した 12000 t 級装甲艦であった。チュフニーンは、5 隻の 12000 t 級装甲艦配備するとともに日本海軍計画凌駕する 8000 t 級の装甲巡洋艦 7 隻を配備し5000 t 級防護巡洋艦 5 隻、ならびに 220 t 級駆逐艦 30 隻と 800 t 級偵察艦イタリア語版)で補強することを提案した偵察艦提案したのは、彼一人であった。まさにこれにより、彼は本物艦隊装甲艦の型を予見したのであるその後連合艦隊初め公海出航し隊形変換のための機動行った。「インペラートル・ニコライ1世」は「グレミャーシチイ」、「コレーエツ」、「ヴラジーミル・モノマフ」からなる艦隊左翼率い「パーミャチ・アゾーヴァ」は「コルニーロフ提督」および「ルィーンダ」からなる右翼率いた右翼グループ横を、「フサードニク」と「ガイダマーク」、それに「スヴェーアボルク」が進んだ。これが、恐らく太平洋ロシア艦隊にとって初めての戦闘隊形であった。 ところがその後艦隊では事故発生した1895年5月14日水雷巡洋艦「フサードニク」が舳先から「パーミャチ・アゾーヴァ」舷側衝突したのである。これにより、「パーミャチ・アゾーヴァ」銅製および木製外板水中部分被害受けた9 日間のあいだ、I・K・フォン・シューリツ海軍少尉指揮の下、17 名の機関技術班と潜水士班が修繕作業行った。 やがて、日本遼東半島要求放棄した情勢緊張緩和訪れとともに太平洋艦隊芝罘を後にした。6月29日「パーミャチ・アゾーヴァ」S・P・トィルトフ海軍中将の旗の下、ウラジオストク向けて出港した。この無血勝利は、ロシア帝国海軍にとっては1863年ロシア帝国艦隊北アメリカ遠征ロシア語版以来最大功績となった6 年間にわたり、「パーミャチ・アゾーヴァ」太平洋艦隊打撃戦力の主力であり続けた。これは、それまでロシア艦船の中では特筆値するほど長期間に及ぶ太平洋で勤務であったその間、艦では 4 人の艦隊司令官指揮を採った。すなわち、S・P・トィルトフ海軍中将E・I・アレクセーエフ海軍少将F・V・ドゥバーソフ海軍少将Ya・A・ギーリテブラント(ロシア語版海軍中将である。その間艦長は 3 名が交替した。すなわち、G・P・チュフニーン 1 等佐官A・A・ヴィレニウス(ロシア語版1 等佐官A・G・ニデルミールレル(ロシア語版1 等佐官である。 1896年11月3日から11月20日にかけて、「パーミャチ・アゾーヴァ」三菱重工業長崎造船所乾ドック入り船体水中部分付着した貝殻海藻除去した付着物は、艦の速力が 2 kn 低下するほどひどかった。ほぼ全体にわたる付着物の前に艦船専門家たちも面食らうほどであった。ほかのいかなる艦にも、これほどひどい付着があったものはなかった。銅製部品は、ブランケット、力材管、推進スクリュープロペラ船尾船首材に至るまですべて、付着物に覆われていた。損傷した銅板張り替えたのち、「パーミャチ・アゾーヴァ」改め出航した済物浦向かった「パーミャチ・アゾーヴァ」は、そこに12月11日から投錨して越冬した。翌1897年3月30日には、太平洋艦隊長官 F・V・ドゥバーソフ海軍少将将官旗の下、釜山移動して横浜目指し出航したその間、ドゥバーソフ提督機関 1 基のみでの航行試験実施させた。4月18日には、横浜停泊した4月27日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」函館港停泊した5月3日、艦は函館去ってウラジオストク向かっていたが、全速航行最中に中圧シリンダー鋳鉄充填箱に破損生じたまた、冷蔵庫配管取替え機関主要部品の解体修理が必要であることも明らかになった。その作業夏から秋にかけての時間がすべて費やされた。9月1日から9月12日には、検査のため長崎にあった。 なお、この間1897年4月10日には、帆装撤去し軽量マスト換装する改装案P・P・トィルトフ海軍大将承諾の下で採択されている。この大規模な改修工事施工されるのは、バルト海帰ってからのこととなる。 9月20日には、ウラジオストクニコライ皇太子船渠において船体外板スクリュー・舵群の状態についての検査受けたその結果先年比べて付着物は著しく減少してまばらになっており、長崎張り替え銅板はまった付着物がないことがわかった。ヴィレニウス艦長は、いろいろな化学処理施した外板について提案した銅板劣化は重大で、板の端が薄くなり、割れやすくなっていた。 補修終えた「パーミャチ・アゾーヴァ」にとって、その年の最大イベントとなったのが清からのポルトアルトゥール引渡しへの参加であった。まず、その前年11月28日F・B・ドゥバーソフ海軍少将麾下太平洋艦隊ポルトアルトゥール突入してイギリスによる侵略阻止すべしとする指令受けた当時イギリスロシア伸張牽制して中国朝鮮半島窺っており、1897年11月ポルトアルトゥール付近軍艦進出させた。ロシア帝国は、1897年山東半島侵略したドイツ帝国膠州湾租借地獲得加えて遼東半島を狙うイギリス速やかに対処する必要に迫られることとなったそれまで清との二国間関係決定的な悪化を齎しかねないとして中国侵略に慎重であったロシアを動かす要因になったのが、今回イギリス艦船侵入であった最初分遣隊派遣されたのは1897年末のことで、同年12月5日M・A・レウーノフ海軍少将麾下1 等巡洋艦ナヒーモフ提督」、「コルニーロフ提督」、航洋砲艦グレミャーシチイ」がポルトアルトゥール入港した続いて12月9日には、大連湾1 等巡洋艦ドミートリー・ドンスコイ」と航洋砲艦「シヴーチ」、「グレミャーシチイ」が進入した一方イギリス巡洋艦 2 隻がポルトアルトゥール港外投錨地に姿を現したのは、12月17日のことであったそのうち 1 隻が湾内侵入し、そこに 3 隻のロシア軍艦が投錨しているのを確認した。なお、清当局当時湾内における軍艦通行禁止している。12月18日イギリス艦隊済物浦にも進駐した。これに対し日本海軍もまた出撃準備行ったロシア地中海艦隊艦隊装甲艦「ナヴァリン」と「シソイ・ヴェリーキー」を極東へ急派することとし極東地域における緊張度高まった1897年12月18日時点で、「パーミャチ・アゾーヴァ」長崎にいた。しかし、事態緊張受けてウラジオストク戻り、翌1898年1月23日には F・B・ドゥバーソフ太平洋艦隊長官将官旗を掲げてポルトアルトゥール入港したペテルブルクからの指令で、ドゥバーソフ海軍少将にはポルトアルトゥール視察して海軍基地建設結論を出すことが求められていた。3月2日には、ドゥバーソフ長官ポルトアルトゥール海軍基地置いて実際問題として不便であり、戦略的に不適切であるという否定的見解出した。しかし、ロシア帝国政府ポルトアルトゥール海軍基地として租借する案を支持し3月16日にはゾロターヤ・ゴラーにキリル・ウラジーミロヴィチ大公によってアンドレイの旗(ロシア語版)が掲げられた。「パーミャチ・アゾーヴァ」以下、太平洋艦隊艦船はこの旗に敬礼し同時にレウーノフ海軍少将大連湾に旗を掲揚した。 これに前後し3月14日には長崎から 1 等巡洋艦ロシア」と「ドミートリー・ドンスコイ」がポルトアルトゥール到着し3月18日には地中海艦隊から派遣され艦隊装甲艦「ナヴァリン」と「シソイ・ヴェリーキー」が到着した4月9日には、これに「リューリク」が合流してドゥバーソフ提督乗艦をこれに移した「パーミャチ・アゾーヴァ」は夏までこの地に留まり新し海軍基地警備任務就いた情勢落ち着いたのを見計らい、ほかの投錨地や港に向けて出航した1898年から1899年にかけての期間、「パーミャチ・アゾーヴァ」停泊地調べながらポルトアルトゥール長崎ウラジオストクのあいだを航行した結局海軍基地設置箇所として適しているのはポルトアルトゥールではなく青島馬山浦であるということ確認された。 この頃になると、ロシア帝国海軍太平洋艦隊大洋巡洋艦ではなく航洋型の装甲艦派遣するよう方針転換したそれまで太平洋艦隊主力をなしてきた大洋巡洋艦1899年末に艦隊装甲艦置き換えられることになり、「パーミャチ・アゾーヴァ」にもバルト海への帰還命令下った1899年11月28日「パーミャチ・アゾーヴァ」ウラジオストク出港し長崎目指した。12月22日には香港出港、翌1900年1月28日にはコロンボ出港してペリム島向かった1900年2月には、ピレウスポロスにあった3月30日にはジブラルタル出港し4月27日キール出港してリバーヴァを目指した。航海期の開始とともに「パーミャチ・アゾーヴァ」クロンシュタット帰港した

※この「再び、太平洋艦隊での勤務」の解説は、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の解説の一部です。
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