再び、太平洋艦隊での勤務
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「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「再び、太平洋艦隊での勤務」の解説
1894年11月9日には、Z・P・ロジェーストヴェンスキイ 1 等佐官指揮下の 1 等巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」がピレウスへ到着し、「パーミャチ・アゾーヴァ」はこれに合流した。同年11月22日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」は G・P・チュフニーン 1 等佐官の指揮の下、艦隊とともにピレウスを後にして新たな駐留地となる極東へ向かった。航海には、バルト海から回航してきた建造されたばかりの水雷巡洋艦「フサードニク」と「ガイダマーク」が同伴した。出港が急がれたため、船の祝日である11月26日の聖ユーリイ(ゲオルギイ)の日も海上航行中に祝われることになった。旅路で「パーミャチ・アゾーヴァ」は 2 隻の水雷巡洋艦を代わる代わる曳航した。これらの艦は小型であったため、洋上のちょっとした波であってもすぐに航行が困難になったのである。しかし、チュフニーン 1 等佐官の適切な指揮のお蔭で、これらの小さな巡洋艦はどうにか沈むことなく航海を続けることができた。 航海の途上、艦隊は香港へ立ち寄った。そして、そこではイギリスによって港湾が深く掘り下げられているのが確認された。これにより、イギリスは香港へ喫水の深い大型艦を配備することが可能になっていたのである。このことは、イギリス海軍が極東へ本格的な戦艦を配備する準備を整えたということを意味していた。1895年2月6日、「パーミャチ・アゾーヴァ」は長崎に到着し、艦上には太平洋艦隊司令官 S・P・トィルトフ海軍中将の将官旗が翻った。このときを以って、「パーミャチ・アゾーヴァ」は太平洋艦隊旗艦となった。4月6日には、地中海艦隊旗艦である艦隊装甲艦「インペラートル・ニコライ1世」が、司令官 S・O・マカーロフ海軍中将の将官旗を掲げて長崎の太平洋艦隊へ合流した。4月7日には、軍事行動の可能性が通達された。 その間、日本政府の指示した規則により、艦隊は日本近在の諸港に分散して逗留しなければならなかった。長崎には、巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」と「ヴラジーミル・モノマフ」が停泊した。そのほか、神戸には 1 等巡洋艦「ナヒーモフ提督」と「ルィーンダ」、それに砲艦「コレーエツ」、横浜には 1 等巡洋艦「コルニーロフ提督」、芝罘には 2 等巡洋艦「ラズボーイニク」、天津には砲艦「シヴーチ」、済物浦には 2 等巡洋艦「ザビヤーカ」、上海には 2 等巡洋艦「クレーイセル」、砲艦「マンジュール」と「グレミャーシチイ」、水雷艇「スヴェーアボルク」、香港には目的地まで到達できなかった砲艦「オトヴァージュヌイ」が水雷艇「ボールゴ」と「レーヴェリ」を連れて停泊した。一方、砲艦「ボーブル」と水雷巡洋艦「フサードニク」および「ガイダマーク」は、ポルド=ガミリトン港外投錨地において軍事演習を行った。 1895年4月11日に宣告された三国干渉により、4月末には太平洋艦隊の諸艦は清の芝罘港に集結し始めた。まず、4月14日には「ヴラジーミル・モノマフ」が芝罘へ入港し、「パーミャチ・アゾーヴァ」は「インペラートル・ニコライ1世」、「フサードニク」、「ガイダマーク」、「スヴェーアボルク」とともに4月23日に現地入りした。近在諸港のロシア艦船に加えて、ウラジオストクからは水雷艇「ウスーリ」と「スンガリー」が増派された。太平洋艦隊と地中海艦隊は合流し、太平洋・地中海連合艦隊司令官参謀長には S・P・トィルトフ海軍中将が任官した。 日本側からの軍事行動開始の可能性の通知があったため、太平洋・地中海連合艦隊は直ちに日本艦対撃滅を念頭に置いた戦闘準備を行うことになった。S・O・マカーロフ提督の進言の下、S・P・トィルトフ提督が中心となって芝罘への道すがら艦隊は戦術を練り、戦陣を組み立て、船内を点検し敵の衝角攻撃に備えて厳重な警戒態勢を取った。艦船にはまた、モールス信号機が搭載された。また、マカーロフ提督は各艦の艦載水雷艇に戦闘時には着水して敵艦隊に攻撃を仕掛けるよう命じた。停泊地点沖には、警備舟艇が配置された。同時に、艦隊にとって革命的な指令となる、艦船塗色の変更が命ぜられた。艦船は平時の塗色から、速やかに保護色の「明灰色」に塗り替えられることとされた。艦長たちは、より効果的な塗色を考えた。巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」は、チュフニーン艦長の命によって現地の色調に合わせて薔薇色がかった灰色に塗り替えた。その結果、夜間のみならず夕暮れや明け方においても艦は海の色に溶け込むようになった。そのほか、マカーロフ提督は「濡れた帆布」色の「ウラジーミル・モノマフ」や黒の上に白く塗られた「オトヴァージュヌイ」、また「インペラートル・ニコライ1世」の塗色が特に優れていると評価している。 その後、連合艦隊はマカーロフ提督の指揮の下、演習を行った。また、「インペラートル・ニコライ1世」では、各指揮官や艦長らを集めた大きな会合が 2 度開かれた。特に、これまでのようにいちいちバルト海から艦隊を行き来させるのはあまりに不都合であり、ウラジオストクの設備を強化して艦隊の常駐能力を持たせることが必要であると話し合われた。また、艦船への防雷網の設置も不可欠であると指摘された。また、太平洋におけるロシア艦隊の将来的主力艦についても「インペラートル・ニコライ1世」での会合で討議された。多くの案が示される中で、将来的に実際に配備されたのはチュフニーン 1 等佐官の提案した 12000 t 級装甲艦であった。チュフニーンは、5 隻の 12000 t 級装甲艦を配備するとともに、日本海軍の計画を凌駕する 8000 t 級の装甲巡洋艦 7 隻を配備し、5000 t 級防護巡洋艦 5 隻、ならびに 220 t 級駆逐艦 30 隻と 800 t 級偵察艦(イタリア語版)で補強することを提案した。偵察艦を提案したのは、彼一人であった。まさにこれにより、彼は本物の艦隊装甲艦の型を予見したのである。 その後、連合艦隊は初めて公海に出航し、隊形変換のための機動を行った。「インペラートル・ニコライ1世」は「グレミャーシチイ」、「コレーエツ」、「ヴラジーミル・モノマフ」からなる艦隊左翼を率い、「パーミャチ・アゾーヴァ」は「コルニーロフ提督」および「ルィーンダ」からなる右翼を率いた。右翼グループ横を、「フサードニク」と「ガイダマーク」、それに「スヴェーアボルク」が進んだ。これが、恐らく太平洋のロシア艦隊にとって初めての戦闘隊形であった。 ところがその後、艦隊では事故が発生した。1895年5月14日、水雷巡洋艦「フサードニク」が舳先から「パーミャチ・アゾーヴァ」の舷側に衝突したのである。これにより、「パーミャチ・アゾーヴァ」は銅製および木製の外板水中部分に被害を受けた。9 日間のあいだ、I・K・フォン・シューリツ海軍少尉の指揮の下、17 名の機関技術班と潜水士班が修繕作業を行った。 やがて、日本は遼東半島の要求を放棄した。情勢の緊張緩和の訪れとともに、太平洋艦隊は芝罘を後にした。6月29日、「パーミャチ・アゾーヴァ」は S・P・トィルトフ海軍中将の旗の下、ウラジオストクへ向けて出港した。この無血勝利は、ロシア帝国海軍にとっては1863年のロシア帝国艦隊の北アメリカ遠征(ロシア語版)以来最大の功績となった。 6 年間にわたり、「パーミャチ・アゾーヴァ」は太平洋艦隊打撃戦力の主力であり続けた。これは、それまでのロシア艦船の中では特筆に値するほど長期間に及ぶ太平洋での勤務であった。その間、艦では 4 人の艦隊司令官が指揮を採った。すなわち、S・P・トィルトフ海軍中将、E・I・アレクセーエフ海軍少将、F・V・ドゥバーソフ海軍少将、Ya・A・ギーリテブラント(ロシア語版)海軍中将である。その間、艦長は 3 名が交替した。すなわち、G・P・チュフニーン 1 等佐官、A・A・ヴィレニウス(ロシア語版) 1 等佐官、A・G・ニデルミールレル(ロシア語版) 1 等佐官である。 1896年11月3日から11月20日にかけて、「パーミャチ・アゾーヴァ」は三菱重工業長崎造船所で乾ドックに入り、船体水中部分に付着した貝殻や海藻を除去した。付着物は、艦の速力が 2 kn 低下するほどひどかった。ほぼ全体にわたる付着物の前に、艦船の専門家たちも面食らうほどであった。ほかのいかなる艦にも、これほどひどい付着があったものはなかった。銅製部品は、ブランケット、力材管、推進用スクリュープロペラ、船尾・船首材に至るまですべて、付着物に覆われていた。損傷した銅板を張り替えたのち、「パーミャチ・アゾーヴァ」は改めて出航した。 済物浦に向かった「パーミャチ・アゾーヴァ」は、そこに12月11日から投錨して越冬した。翌1897年3月30日には、太平洋艦隊長官 F・V・ドゥバーソフ海軍少将の将官旗の下、釜山に移動して横浜を目指して出航した。その間、ドゥバーソフ提督は機関 1 基のみでの航行試験を実施させた。4月18日には、横浜に停泊した。4月27日には、「パーミャチ・アゾーヴァ」は函館港に停泊した。5月3日、艦は函館を去ってウラジオストクへ向かっていたが、全速航行の最中に中圧シリンダーの鋳鉄製充填箱に破損を生じた。また、冷蔵庫の配管の取替えや機関の主要部品の解体修理が必要であることも明らかになった。その作業に夏から秋にかけての時間がすべて費やされた。9月1日から9月12日には、検査のため長崎にあった。 なお、この間の1897年4月10日には、帆装を撤去し軽量マストに換装する改装案が P・P・トィルトフ海軍大将の承諾の下で採択されている。この大規模な改修工事が施工されるのは、バルト海に帰ってからのこととなる。 9月20日には、ウラジオストクのニコライ皇太子船渠において船体外板とスクリュー・舵群の状態についての検査を受けた。その結果、先年に比べて付着物は著しく減少してまばらになっており、長崎で張り替えた銅板にはまったく付着物がないことがわかった。ヴィレニウス艦長は、いろいろな化学処理を施した外板について提案した。銅板の劣化は重大で、板の端が薄くなり、割れやすくなっていた。 補修を終えた「パーミャチ・アゾーヴァ」にとって、その年の最大のイベントとなったのが清からのポルト=アルトゥール引渡しへの参加であった。まず、その前年の11月28日、F・B・ドゥバーソフ海軍少将麾下の太平洋艦隊はポルト=アルトゥールに突入してイギリスによる侵略を阻止すべしとする指令を受けた。当時、イギリスはロシアの伸張を牽制して中国や朝鮮半島を窺っており、1897年11月にポルト=アルトゥール港付近へ軍艦を進出させた。ロシア帝国は、1897年山東半島を侵略したドイツ帝国の膠州湾租借地獲得に加えて遼東半島を狙うイギリスに速やかに対処する必要に迫られることとなった。それまで清との二国間関係の決定的な悪化を齎しかねないとして中国侵略に慎重であったロシアを動かす要因になったのが、今回のイギリス艦船の侵入であった。 最初の分遣隊が派遣されたのは1897年末のことで、同年12月5日に M・A・レウーノフ海軍少将麾下の 1 等巡洋艦「ナヒーモフ提督」、「コルニーロフ提督」、航洋砲艦「グレミャーシチイ」がポルト=アルトゥールに入港した。続いて12月9日には、大連湾へ 1 等巡洋艦「ドミートリー・ドンスコイ」と航洋砲艦「シヴーチ」、「グレミャーシチイ」が進入した。一方、イギリス巡洋艦 2 隻がポルト=アルトゥールの港外投錨地に姿を現したのは、12月17日のことであった。そのうち 1 隻が湾内へ侵入し、そこに 3 隻のロシア軍艦が投錨しているのを確認した。なお、清当局は当時、湾内における軍艦の通行は禁止している。12月18日、イギリス艦隊は済物浦にも進駐した。これに対し、日本海軍もまた出撃の準備を行った。ロシアは地中海艦隊の艦隊装甲艦「ナヴァリン」と「シソイ・ヴェリーキー」を極東へ急派することとし、極東地域における緊張度が高まった。 1897年12月18日の時点で、「パーミャチ・アゾーヴァ」は長崎にいた。しかし、事態の緊張を受けてウラジオストクへ戻り、翌1898年1月23日には F・B・ドゥバーソフ太平洋艦隊長官の将官旗を掲げてポルト=アルトゥールへ入港した。ペテルブルクからの指令で、ドゥバーソフ海軍少将にはポルト=アルトゥールを視察して海軍基地建設の結論を出すことが求められていた。3月2日には、ドゥバーソフ長官はポルト=アルトゥールに海軍基地を置いても実際問題として不便であり、戦略的にも不適切であるという否定的見解を出した。しかし、ロシア帝国政府はポルト=アルトゥールを海軍基地として租借する案を支持し、3月16日にはゾロターヤ・ゴラーにキリル・ウラジーミロヴィチ大公によってアンドレイの旗(ロシア語版)が掲げられた。「パーミャチ・アゾーヴァ」以下、太平洋艦隊の艦船はこの旗に敬礼し、同時にレウーノフ海軍少将は大連湾に旗を掲揚した。 これに前後し、3月14日には長崎から 1 等巡洋艦「ロシア」と「ドミートリー・ドンスコイ」がポルト=アルトゥールへ到着し、3月18日には地中海艦隊から派遣された艦隊装甲艦「ナヴァリン」と「シソイ・ヴェリーキー」が到着した。4月9日には、これに「リューリク」が合流してドゥバーソフ提督は乗艦をこれに移した。 「パーミャチ・アゾーヴァ」は夏までこの地に留まり、新しい海軍基地の警備任務に就いた。情勢が落ち着いたのを見計らい、ほかの投錨地や港に向けて出航した。 1898年から1899年にかけての期間、「パーミャチ・アゾーヴァ」は停泊地を調べながらポルト=アルトゥール、長崎、ウラジオストクのあいだを航行した。結局、海軍基地の設置箇所として適しているのはポルト=アルトゥールではなく、青島や馬山浦であるということが確認された。 この頃になると、ロシア帝国海軍は太平洋艦隊へ大洋巡洋艦ではなく航洋型の装甲艦を派遣するよう方針を転換した。それまで太平洋艦隊の主力をなしてきた大洋巡洋艦は1899年末に艦隊装甲艦に置き換えられることになり、「パーミャチ・アゾーヴァ」にもバルト海への帰還命令が下った。1899年11月28日、「パーミャチ・アゾーヴァ」はウラジオストクを出港し長崎を目指した。12月22日には香港を出港、翌1900年1月28日にはコロンボを出港してペリム島へ向かった。1900年2月には、ピレウスとポロスにあった。3月30日にはジブラルタルを出港し、4月27日にキールを出港してリバーヴァを目指した。航海期の開始とともに「パーミャチ・アゾーヴァ」はクロンシュタットへ帰港した。
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