再び四川へ、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 07:04 UTC 版)
以後、呂超は孫文の直属部下となり、国民軍など国内各政治勢力との連合交渉を担当した。1923年(民国12年)5月、この功績により、孫文から大元帥府参軍長に任命された。6月、孫文により四川討賊軍総司令に任命された熊克武が、北京政府派の楊森、劉湘らに攻撃されると、呂超が四川討賊軍第一軍に任命されて四川に戻る。しかし熊は、1924年(民国13年)3月に敗北した。呂超はその後も四川に留まり、四川督理楊森討伐の戦いに参加している。1926年(民国15年)11月、国民政府から四川宣慰使に任命され、北伐に呼応した。 北伐完了後は、李宗仁らの新広西派(新桂系)に味方し、反蒋介石戦争に参加したが、大敗している。1939年(民国28年)10月、中国抗建墾殖社を重慶に創立し、開墾事業を推進した。1948年(民国37年)1月、監察院監察委員に任命された。1949年(民国38年)、四川省国民党部隊の中国共産党への帰順工作に従事している。1950年、中華人民共和国で西南軍政委員会委員に任命された。 1951年7月20日、重慶で病没。享年62(満61歳)。
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