大洋監督1期目(1968 - 1972)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:22 UTC 版)
「別当薫」の記事における「大洋監督1期目(1968 - 1972)」の解説
大洋では1期目の1968年は顔ぶれこそ前年と不変であったが、一方で4番の桑田武が別当との確執からスタメンを外れ、外野手の松原が三塁手にコンバートされた。投手陣では森中千香良・島田源太郎・平松政次・山下律夫などがローテーションに入ってそれなりの成績を収めたが、打線の援護で勝つ試合も多くチーム防御率3.71はリーグ5位であった。打撃陣では松原をはじめ、前年レギュラー定着の江尻や前年首位打者を争った近藤和彦、正捕手の伊藤勲などがそれなりの成績を残してチーム本塁打131本でリーグ3位を記録した。4年連続Bクラスの影響もあったのか開幕から成績がふるわなかったが、中日が5月からノースリーブユニフォームを採用して一気に最下位に転落したこともあり、5位で終えた。対戦成績では4連覇した巨人に12勝14敗と健闘したが、4位のサンケイに8勝18敗と大きく負け越しAクラス入りはならなかった。この年から帽子マークは「T」からホエールズの「W」に変更され、大洋最後の1992年まで続いた。 1969年~1971年までは、3年連続Aクラス3位をキープ。1969年は5月に巨人と同率ながら阪神に次ぐ2位とまずまずの滑り出しであったが、巨人が独走した6月以降はゲーム差が開き、7月以降は中日やアトムズと3位争いを展開。9月終了時点で2位の阪神に0.5ゲーム差と接近するが、終盤は一進一退の試合が続いて波に乗れず巨人の5連覇を許した。それでもシーズン勝ち越しは果たせなかったが、三原脩監督時代の1964年以来5年ぶりのAクラスとなった。チームは優勝の巨人に11勝13敗2分と健闘し、2位阪神には14勝12敗と勝ち越したものの、5位のアトムズには9勝16敗1分と相性が悪く5割越えはならなかった。投手陣では3年目の平松と山下律夫が2桁勝利を挙げ、高橋重行・森中などもローテーションを守ってチーム防御率リーグ3位の3.19を記録した。打撃陣では4番の松原が奮闘し、近藤和・江尻などもそれなりの成績を残してチーム本塁打125本はリーグ4位と健闘した。この年には後に12球団勝利を達成する野村収が入団するが、シーズン終盤の1試合登板にとどまった。 1970年は中塚政幸を外野手にコンバートし、1番には重松省三、3番には松原、4番には江尻が入るなど戦力を一新。攻撃型オーダーでスタートしたチームであったが、開幕ダッシュには程遠く4月は首位の巨人と3ゲーム差ながら最下位で終了。5月以降は徐々に順位を上げ、6月には3位に浮上するとその後は阪神を抜いて2位となり、常に巨人を追いかける展開が続いた。9月終了時点では3位ながらも巨人に4.5ゲーム差と肉薄するが、最後は巨人とマッチレースの阪神に突き放されて3位に終わり、悲願であるペナント奪回はならなかった。チームは6連覇の巨人に14勝11敗1分と逆に勝ち越したが、阪神に11勝15敗、4位の広島に11勝14敗1分と負け越した。投手陣は平松・山下・高橋・坂井勝二がローテーションを守りそれなりの成績を収めた。特に平松はカミソリシュートを武器に25勝を挙げて最多勝となり、沢村賞も受賞した。それ以外には鬼頭洋が6月9日のヤクルト戦(川崎)でノーヒットノーランを演じたほか、2年目の野村やルーキーの間柴茂有が中継ぎで一軍に定着するなど、明るい話題が続出した。打撃陣はチーム本塁打が優勝の巨人と25本差の106本の5位に終わった。 1971年はこの年こそ11年ぶりの優勝が期待されたが、4月は巨人が開幕ダッシュに成功したこともあり波に乗れず、5月は3位とAクラスに踏みとどまるも6月には一気に最下位に転落。夏場以降は阪神やヤクルトなどとAクラス争いを演じ、9月にヤクルト・阪神が相次いで脱落すると中日・広島との2位争いを繰り広げ、最後は引き分けが多かったものの広島を抜いて3位を守った。投手陣は大エース平松が17勝を挙げて2年連続の最多勝となったほか、坂井・山下・高橋などもそれなりの成績を収め、チーム防御率はリーグ1位の2.31を叩き出した。一方で打撃陣は中塚・江尻・松原などが奮闘するも、それ以外の打者が貧打に喘ぎチーム打率.215、チーム本塁打も82本とリーグ最下位に終わり、それ以上の貯金はならなかった。 最後の1972年はアメリカからクリート・ボイヤーとジョン・シピンの外国人コンビが入団、ロッテから江藤慎一をトレードし打線を強化したものの、前年から引き続き、投手陣が脆弱であったために低迷。そんな中でセ・リーグは阪神(村山実選手兼任監督→金田正泰代行)、広島(根本陸夫監督→森永勝也代行)と監督途中交代が連続、大洋でも8月に連敗が続いたため、8月31日より別当が「優勝が絶望的になった」として休養に入り退任。
※この「大洋監督1期目(1968 - 1972)」の解説は、「別当薫」の解説の一部です。
「大洋監督1期目(1968 - 1972)」を含む「別当薫」の記事については、「別当薫」の概要を参照ください。
- 大洋監督1期目のページへのリンク