大洋艦隊との遭遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 15:27 UTC 版)
「スカーバラ、ハートルプールおよびウィトビー襲撃」の記事における「大洋艦隊との遭遇」の解説
ウォレンダー率いる戦艦と巡洋艦は、12月15日の午前5時半にスカパ・フローを出発した。悪天候により駆逐艦を同伴することはできなかったが、ビーティーは午前6時、クロマーティー(Cromarty)を発つ時、巡洋戦艦部隊に7隻を随伴させた。これらの艦隊は、午前11時にマレー湾付近で合流する。先任の提督としてウォレンダーが全戦力の指揮官となり、ドッガーバンクの予定迎撃海域へ向かった。 12月16日の午前5時15分、駆逐艦「リンクス」は敵艦(SMS V-155)を発見する。駆逐艦部隊が調査のため派遣された結果、ドイツ海軍の駆逐艦および巡洋艦からなる艦隊と戦闘が起こった。「リンクス」は被弾し、スクリューを損傷する。駆逐艦「アンバスケード(HMS Ambuscade (1913))」は浸水により、遭遇戦から脱落した。駆逐艦「ハーディー」は軽巡洋艦「ハンブルク」(de:SMS Hamburg (1903))の激しい砲撃を受け、大きな損害を受けたが、どうにか魚雷を発射した。雷撃の情報は、戦闘中の駆逐艦を指揮下に置く、大洋艦隊司令のインゲノール提督に伝わった。数時間後、暗くなるとともに遭遇戦は中断する。しかし翌朝の午前6時3分に、まだ継戦可能だった4隻の駆逐艦のうちの1隻、「シャーク(HMS Shark (1912))」は再び5隻の敵駆逐艦に接触した。イギリスの4隻が攻撃をかけると、ドイツ側の艦艇は司令官に敵との遭遇を報告しつつ撤退した。 インゲノール提督は、皇帝にその意図を報告することなくドイツ艦隊の主力を作戦に組み込んだ時点で、皇帝が発した厳命の制約を越えていた。そして午前5時30分、艦隊を危険に晒してはいけないという命令を尊重し、また自分が遭遇したのがグランド・フリート本隊の前衛部隊ではないかと心配して、彼はドイツへの帰路についた。もし作戦を継続していれば、間もなくイギリスの巡洋戦艦4隻と戦艦6隻を、指揮下の戦艦22隻を含む遥かに優勢な戦力で迎撃できていた。これこそ正しく、ドイツ側の戦略が求めていた戦力を拮抗させる好機であった。イギリス側の主力艦10隻は、数と火力の面でかなりの劣勢に立たされ、おそらくは大損害を被っていたであろう。これらが失われれば、双方の海軍力が拮抗することになる。後にチャーチルはこの事態を擁護し、イギリス側の艦艇は優速なので単純に転舵し、退避できていたと主張した 。またジェリコーなどの者は、ビーティーのような提督なら、ひとたび敵と接触すれば交戦することにこだわるだろうという危険を感じていた。ティルピッツ元帥は、後に「インゲノールは全ドイツの命運をその手に握っていた。」と述べている。 午前6時50分、「シャーク」その他の駆逐艦は再び敵艦を発見した。駆逐艦数隻に護衛された巡洋艦「ローン」である。ジョーンズ艦長は7時25分に発見を報告し、それはウォレンダーと、ビーティーの戦隊の「ニュージーランド」によって受信されたものの、ビーティーには届けられなかった。午前7時40分、「ローン」を雷撃しようと接近を試みるジョーンズ艦長は、同艦が他に2隻の巡洋艦と行動しているのを見て、全速力で後退を強いられた。ドイツの艦は追撃したものの、追随できずに艦隊に戻っていった。ウォレンダーは、ビーティーも同じ判断を下すものと期待して「シャーク」が報告した位置へ向かうため、針路を転じる。7時36分、彼はビーティーが針路を変更したか確認を試みるが、返答は無かった。7時55分にようやく連絡が取れると、遅ればせながらもビーティーは指揮下にある最寄の艦、「ニュージーランド」と3隻の軽巡洋艦を迎撃に派遣した。この4隻は敵発見の可能性を大きくするため相互に2マイルの間隔を空けており、後にはその他の巡洋戦艦が追従する。8時42分、ウォレンダーとビーティーはスカーバラの「パトロール」から、巡洋戦艦2隻に攻撃を受けていると報告を受けた。ドイツの主力艦隊と遭遇する可能性のあった「ローン」の追撃は放棄され、イギリスの戦隊はヒッパーを迎撃するため北に転じる。
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