1983年シーズン
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「マクラーレン・MP4/1」の記事における「1983年シーズン」の解説
シーズン序盤から中盤にかけてはMP4/1Cを使用。しかし、第2戦アメリカ西GPでワトソンが1勝を挙げるにとどまっていた。 ラウダが第12戦より、ワトソンが第13戦からMP4/1Eをドライブした。あわせて7回の出走のうち、5回がリタイヤ、1回が失格で完走扱いが1回きり(残り6周でトラブルのためストップ)という散々な結果だったが、実戦に投入できたことで1984年シーズンが始まる前に問題点を洗い出すことができた。
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1983年シーズン
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1983年、片山は専属トレーナーを伴ってWGPを転戦することにした。そして今シーズンは昨シーズン終盤からの好調を維持し、GP史上に残る激しいトップ争いを行っていたフレディ・スペンサーとケニー・ロバーツとの間に割って入る活躍を見せる。ダッチTT(オランダGP)のレース終盤では、先頭を走っていたケニーは勝利を確信してスピードを落としていたが、その背後から片山が迫っていた。しかし、ケニーはそのことに気付かず、チェッカーフラグが振られたときにはケニーと片山の差はわずか0.19秒であった。ケニーが優勝し、片山は2位となる。レース後、ケニーは次のように語っている。 「ぼくは、タカズミとは3秒以上差があると思っていたよ。本当さ。君は、ぼくとタカズミの差が1.8秒に見えたかい? だからゆっくり行ったんだ」(ケニー・ロバーツ) 片山もレース終了後に、彼を囲む各国の報道陣に次のように語った。 「今年、最高のレースだったよ」(片山敬済) しかし、最終戦のサンマリノGPで転倒、背骨を圧迫骨折するという重傷を負ってしまい、ランキング5位に終わる。このシーズンは優勝はできなかったが、2位2回、3位2回という成績を残し、表彰台に4回上がっている。第1戦と第2戦、最終戦がノーポイントのためにランキングは5位になってしまったが、フレディ・スペンサー(1983年世界チャンピオン)やランディ・マモラ(1983年ランキング3位)は、 「カタヤマは実質的には3位だよ」(フレディ・スペンサー、ランディ・マモラ) と語っている。 1983年シーズンのレースでケニーとフレディの戦いに加わることができたライダーは片山とランディの2人ぐらいであったが、2人とも「彼らにはとてもかなわない」と言い、片山は「彼らは神の領域に入っている」「彼らに追いつこうと思ったら死んじまうよ(苦笑)」と語っていた。今シーズン(1983年シーズン)のケニーとフレディの走りはそれ程凄いものであった。 1983年シーズンの結果は次のとおり。 Rd. グランプリサーキット500ccクラスの結果1 南アフリカ キャラミ リタイア 2 フランス ル・マン 3 イタリア モンツァ 5位 4 西ドイツ ホッケンハイム 2位 5 スペイン ハラマ 3位 6 オーストリア ザルツブルクリンク 4位 7 ユーゴスラビア リエカ 5位 8 オランダ(ダッチTT) アッセン 2位(優勝したケニー・ロバーツとの差は0.19秒) 9 ベルギー スパ・フランコルシャン 4位 10 イギリス シルバーストン 6位 11 スウェーデン アンダーストープ 3位 12 サンマリノ イモラ 転倒リタイア(背骨圧迫骨折)
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1983年シーズン
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「フェラーリ・126C3」の記事における「1983年シーズン」の解説
第8戦カナダGPまでは126C2Bで参戦し、シーズン後半戦から126C3を投入した。 デビュー戦の第9戦イギリスGPではルネ・アルヌーがポールポジション(PP)、パトリック・タンベイが2位となりフロントローを独占。第10戦ドイツGPではアルヌーが優勝し、第12戦ではアルヌー、タンベイがワンツーフィニッシュを飾った。カナダGPから6連続入賞(うち3勝)したアルヌーは第14戦イタリアGP終了時点でポイントランキング首位のアラン・プロスト(ルノー)に2点差まで肉薄したが、残り2戦は無得点に終わり、ドライバーズチャンピオンはネルソン・ピケ(ブラバム)のものとなった。タンベイは3PPを獲得したがリタイアが多く、チームメイトに及ばなかった。 この年、安定した成績を収めたフェラーリは、ドライバーズランキングではアルヌーが3位、タンベイが4位を獲得。両ドライバーとも好成績を収めた結果、コンストラクターズランキングでは1982年に続いて連覇を達成した。
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