序盤から中盤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:29 UTC 版)
戦争はドイツ軍のベルギー侵入ではじまった。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘となり、このフロンティアの戦い(英語版)(8月14日 - 8月24日)で英仏軍はドイツ軍に圧倒された。9月に入りドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)でパリ防衛司令官ガリエニがルノーのタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。司令官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身に付けた軍人であり、ただ兵員や兵器の量を増やし、攻撃箇所を変更するぐらいしか変化はなかった。迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・戦車・戦闘機など新兵器が次々に登場したが、それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。 ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。
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