1983年の悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:32 UTC 版)
「アレクサンドル・スヴォーロフ (客船)」の記事における「1983年の悲劇」の解説
1983年6月5日、アレクサンドル・スヴォーロフはロストフからモスクワへ航行していた。同船には乗客330人と乗員30人、サービス要員35人が乗船していた。数人の無登録の乗客も乗っていたとされている。22時00分ごろ、上甲板のシネマホールでオークションが間もなく開催されるという知らせが出た。22時45分からテレビ中継が行われる予定で、多くの乗客が上甲板に集まった。一等航海士のウラジミール・ミテンコフ (Vladimir Mitenkov) と操舵手のウヴァーロフ (Uvarov) が同じく上甲板にある操舵室で操船していた。船長のウラジミール・クレイメノフ (Vladimir Kleymenov) は自分のキャビンで休憩していた。同船は最高速度の25 km/h (16 mph; 13 kn)で航行していた。船は通行可能な2つ目のスパンではなく6つ目のスパンに達したが、そのスパンは船の主甲板よりも低く貨物列車が橋の上を通過していた。川岸にいた管制官たちはアレクサンドル・スヴォーロフが誤ったスパンに来たことに気づいた。彼らは同船に無線でメッセージを送ったが、返信は無かった。次に彼らは警告用の発炎筒を発射したが手遅れであった。橋のスパンは甲板室とシネマホールを切断したが、最下甲板は無傷であった。衝撃で橋は損傷し、一部の車両が脱線し、車両の積荷が船に落下した。アレクサンドル・スヴォーロフは橋に衝突した後もさらに300メートル (1000ft) 進み続けた。複数の救助艇が40分後にアレクサンドル・スヴォーロフに到着した。 悲劇の直後、ウリヤノフスクは閉鎖都市と宣言された。ボランティアたちは献血を行なったり応急の棺を作ったりした。負傷者の大部分は、列車から落ちてきた穀物や石炭による剥離損傷を負っていた。
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