1983年の事件とは? わかりやすく解説

1983年の事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 05:34 UTC 版)

スタニスラフ・ペトロフ」の記事における「1983年の事件」の解説

スタニスラフ・ペトロフ戦略ロケット軍中佐であり、1983年9月26日モスクワはセルプコフ-15バンカー当直将校だった。ペトロフ担当任務には、核攻撃対す人工衛星による早期警戒網を監視しソ連への核ミサイル攻撃認めた場合これを上官通報することが含まれていた。そのような攻撃受けた場合ソ連の対応相互確証破壊戦略基づいており、即時反応による米国へ核攻撃を行うこととされていた。 0時40分、バンカーコンピュータ米国からソ連向けて飛来する一発ミサイル識別した。ペトロフはこれをコンピュータエラーだと考えた。何故なら、理論上米国からの先制核攻撃は、何千発とは言わずとも何百発ものミサイル同時発射によるソ連側反撃力の殲滅を含むはずだからである。また人工衛星システム信頼性にも以前から疑問があった。ペトロフはこれを誤警報として退けたが、コンピュータによる検知誤り米国ミサイル発射していないと結論した後で、彼が上官通報したか否かについては「した」という説と「しなかった」という説がある。この後コンピュータ空中にあるミサイルをさらに4発(1発目と合わせて計5発)識別しいずれもソ連向けて飛来しつつあるとした。再びペトロフコンピュータシステム誤動作断定したが、彼の判断裏付ける情報源は実は何一つなかった。ソ連レーダーには地平線向こうに隠れたミサイル探知する能力はなかったので、それらが脅威探知するまで待ったとすると、ソ連事態対処できる余裕は僅か数分間に限られてしまっただろう。 もしペトロフ誤って本物攻撃誤報考えたのだとしたら、ソ連は何発かの核ミサイル直撃されていただろうし、もし彼が米国ミサイル飛来中だと通報していたならば、上層部は敵に対す破滅的な攻撃発動し対応して米国からの報復核攻撃招いていたかも知れないペトロフ自身直感信じシステム表示は誤警報であると宣言した彼の直感は後に正しかったことが明らかになった。飛来してくるミサイルなどは存在せずコンピュータ探知システム誤動作していた。後日高高度掛かった日光監視衛星モルニヤ軌道一列に並ぶというまれな条件原因だったことが判明した(後にこのエラー追加配備され静止衛星との照合によって回避されようになった)。 ペトロフが後に述べたところによると、彼のこの重大な決断は、次のような事柄根拠にしていたという。1つには米国攻撃があるとすればそれは総攻撃になるはずだと告げられていたこと。5発のミサイルというのは先制としては非論理的に思われた。発射検知システムはまだ新しく、彼から見て未だ完全には信頼する足りなかったこと。そして地上レーダーその後何分間かが経過して何ら追加証拠を拾わなかったこと。

※この「1983年の事件」の解説は、「スタニスラフ・ペトロフ」の解説の一部です。
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