1983年から1990年
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「ジャーゴンファイル」の記事における「1983年から1990年」の解説
Steele-1983 の出版の直後、ファイルの拡大と変更は事実上停止した。元々、これはファイルの更新を一時的に停止することによって Steele-1983 の出版を容易にさせるためのものであったが、外部の状況の変化によってこの「一時的」な停止は恒久的なものになった。 人工知能研究所の文化は1970年代の後期に予算の削減と、それにともなって内製のソフトウェアのかわりにベンダーによってサポートされたハードウェアとプロプライエタリなソフトウェアを可能な限り使用するようにとの管理上の決定が行われたことによって大きな打撃を受けた。マサチューセッツ工科大学ではほとんどの人工知能研究は専用のLISPマシンに変更された。また、同時期の人工知能技術の商用化により、人工知能研究で最も優秀で才能のある人材がマサチューセッツ州の128号線沿いの新興企業や西のシリコンバレーに出て行ってしまった。こうした新興企業がマサチューセッツ工科大学の LISP マシンを構築した。中心となるマサチューセッツ工科大学の人工知能コンピュータは人工知能ハッカーが愛したITSのホストではなく、TWENEXシステムとなった。 スタンフォード大学人工知能研究所は1980年頃には実質的に活動が中止されていた。それでもスタンフォード大学のコンピュータは計算機科学学部の資産として1991年まで動き続けた。スタンフォード大学は主要な TWENEX サイトとなり、一時は10台以上の TOPS-20 システムが稼働していた。しかし1980年代の中頃にはほとんどの興味深いソフトウェア開発は新しく現れた BSD UNIX 標準仕様の上で行われていた。 1983年5月にはファイルを育んだ PDP-10 中心の文化はディジタル・イクイップメント・コーポレーションのジュピター計画中止によって致命的打撃を被った。すでに散り散りになっていたファイルの編纂者は他の物事に移った。Steele-1983 は著者たちにとって失われつつあった伝統を記念するものとなった。この時点では関係者の中にはファイルの影響がどれだけ広い範囲に渡っていたかを認識していたものはいなかったのである。 1980年代の中頃にはファイルの内容はすでに古いものとなっていた。しかしファイルを中心として成長した伝説は失われることはなかった。書籍とアーパネットから取り寄せられたソフトコピーはマサチューセッツ工科大学とスタンフォードからはほど遠い文化にまで広まっていた。ファイルの内容はハッカーの言語やユーモアに強い影響を与え続けた。マイクロコンピュータ時代の到来などによってハッカー界が爆発的に膨張しても、ファイルは一種の神聖不可侵の叙事詩、「研究所の騎士」による英雄的功績を記録したハッカー文化版の「Matter of Britain」(アーサー王と円卓の騎士の伝説集)として見られていた。ハッカー界全体の変化の速度は非常に加速したが、ジャーゴンファイルは生きた文書からイコンとなり、7年間に渡ってほとんど手つかずのまま残された。
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